【前編】全ては人との出会いから。挑戦を重ねながら歩む、母としての人生〈Career Break Diary vol.3 増田陽子さん〉

イタリアに移住し 人生で最も大切なのは 日本の家族だと気づいた

「キャリアブレイクダイアリー」では、キャリアの途中で立ち止まり、自分らしい選択をした人たちの声をお届けします。そして今回、お話を伺ったのは、増田陽子さんです。(以下、陽子さん)

陽子さんは15歳で初めて渡英し、高校1年時に1年間のイギリス留学を経験。大学時代は映画制作の現場に深く関わりつつ、ご実家が経営する会社の手伝いでクラシックカーのイベントにも携わります。これをきっかけにイタリア語を学び、現地で徐々にコーディネイターの業務をスタートし、2006年に活動拠点をイタリアへと移しました。2013年に日本へ本帰国後は、自身の会社を立ち上げ、日本の企業向けにミラノのデザインウィークに関連するイベントコーディネイト、その他ファッションショー・ミラノ万博などの現地でのコーディネイト業務を本格的に始動。また、その後は会社員として外資系自動車メーカーにてイベントマーケティング統括、飲料メーカーではオリンピック関連マーケティング業務、音楽ストリーミング企業にて、日本市場のBtoBマーケティング戦略の統括などを担い、幅広い経験と実績を積まれました。2023年、45歳で第一子を出産し、現在は会社員を辞め、ご自身の会社を通じてイタリアと日本を繋ぐ仕事を中心に活動しています。

―まず、陽子さんのご経歴についてお伺いしたいです。なぜ15歳のときにイギリスに行ったのですか。

陽子さん:小さい頃から両親に「留学する?」となんとなく聞かれていました。ちょうど母の親友がイギリス人と結婚し、私と歳の近かった娘さんが全寮制の学校に通っており、両親も「女子寮なら安心」と快く送り出してくれました。15歳の時に夏休みに1ヶ月間ホームステイを経験し、元々物怖じするタイプではなかったのと、新しい環境に入るのがとても楽しそうだと思い、翌年16歳になったときに1年間全寮制のイギリスの学校に通いました。

―実際留学されてみていかがでしたか。

陽子さん:日本人は私だけだったので英語を学ぶ環境としては最高でした。マインドセットもかなり変わりました。同い年の子達がとても自立していて、将来について明確なビジョンがある学生が多かった印象です。そこでハッとなって、「自分は何がやりたいんだろう」と考えるようになりました。私は小学生で受験し、大学まである一貫の学校に通っていたので、周りは誰も受験をしない環境でした。それでも、慣れた環境から出てみたいと思うようになり大学受験をすることに繋がりました。

―日本の大学に通っている間、どのような大学生活を過ごされましたか。

陽子さん:イギリスにいた頃から「将来自分は何がやりたいんだろう」と考えてきて、思考を重ねた結果「私これやりたいかも」と思ったのが映画監督だったんです。当時運動部のマネージャーをしていたのですが、「これは部活をしている時間はないぞ!」と思い、知人を伝って、映画制作の現場にボランティアで働き、映画の世界にどっぷり浸かりました。私は「こっちだ!」と思うと突き進むタイプなんです。ただ、撮影が始まると、一番下っ端の私は現場に1番に入り、全員が帰るまで帰ることができず、1日3時間睡眠がずっと続き、そうなると友達にも家族にも会えません。その生活を続けているうちに、「果たして私はこの生活を続けてでも映画の仕事をしたいのか」と自問自答し、一旦その世界から離れる決断をしました。その流れで、実家の会社を手伝うことになりました。

―ご実家は会社を経営されていらっしゃるのですね。

陽子さん:はい。当時実家の会社でイタリアのクラシックカーのイベントを主催していました。そのときの仕事の相手がイタリア人で、私が英語でコミュニケーションのサポートをしていたのですが、イタリア人はあまり英語が通じないんです。私は言語を学ぶのが大好きで、大学在学中からちょこちょこイタリア語学校に通っていたのですが、「これは現地に行った方が早く学べる!」と思いたってイタリアに行くことにしました。

―大学では就職活動はされていなかったのですか。

陽子さん:そうですね。映画監督になりたかったので、もともと就活は自分とは無縁のものと思っていました。

―周りが就職活動を始めた中、ご自身のお考えを貫けるのがすごいです。イタリアに行かれてからはどのような生活でしたか。

陽子さん:イタリアに行ったときに、日本でしていた色々なことが繋がっていったのが面白かったんです。大学時代に映画制作の現場でお世話になった方々が、偶然私の留学先であるフィレンツェ・ミラノでその前年度に映画の撮影をしていたんですよ。その現場で通訳兼コーディネイターをしていた方を紹介してもらい、留学してある程度イタリア語が話せるようになってから、数年後に日本のテレビ撮影のコーディネートアシスタントをしてくれないかとお話があり、現場にお手伝いに入りました。

―そこからメディアのお仕事をするようになったのですね。

陽子さん:はい。現地に住んでいるコーディネーターと次々繋がっていき、始めの方はありがたいことにそうして知人からの紹介で仕事を繋いでいくことができました。しばらくして「車関連のイベントの通訳をやらないか」と知人に声をかけてもらって、それをきっかけに博報堂さんとお仕事をすることになりました。蓋を開けてみたら「ミラノサローネ」というデザイン関連のイベント運営のお手伝いだったんです。

―イタリア、ミラノで開催されているデザインウィークですね。

陽子さん:はい。それまでは学生ビザで日本とイタリアを行ったり来たりしていたのですが、これを機に、30歳になる年にイタリアに移住しました。

―陽子さんの起業はこのお仕事がきっかけですか。

陽子さん:そうです。2013年に日本に本帰国し、準備段階から長いスパンでミラノサローネに携わることになりました。博報堂さんという大きな会社と仕事をするには、フリーランスだと信用の問題があるので法人を設立しました。これが今の仕事のベースとなっています。

―イタリアへの移住後、日本に本帰国されたのはなぜですか。

陽子さん:どちらかというとプライベートな理由からです。「一生この国で生きてくのか」と考える機会が折々あり、ちょうどそのタイミングで姪っ子が生まれたんです。当時まだ私は結婚をしておらず子供もいなかったので、姪っ子の成長を近くで見たいと思いました。イタリアでの生活よりも「自分の人生にとってこっちの方が絶対大事だ」と、優先順位がそこでガラッと変わったんですよね。

―その時おいくつでいらっしゃいましたか?

陽子さん:ちょうど35歳だったんです。女性にとって、30歳、35歳、40歳の節目の歳って自分の人生について考えることって結構ありますよね。私は生まれも育ちも日本、家族も友達も日本にいる。それとイタリア人は元々家族をすごく大事にする国民なんです。そういう人たちを見ていて、「人生で大切なのは家族だな」とシンプルな回答に行き着きました。

―日本に戻られてからBMWに就職されていますが、どのような経緯があったのでしょうか?

陽子さん:そうそう、次の節目は40歳で「あれ?私、今まで会社員を一度もやったことない」と気づいたんです。博報堂さんとのお仕事もスタートしてからかれこれ7、8年経っていたので、自分の中で挑戦欲のようなものが芽生えてきて。私は、次何か自分が成長したいと思ったときには、それまで経験したことのないことや、自分が見たことのない立場にあえて身を置くことを大切にしています。いわゆるコンフォートゾーンを抜け出す、ということですね。それまでも時折ヘッドハントのお話をいただくことはあったのですが、BMWのお話をいただいた際には、もともと好きなブランドでしたし、車好きでもあるので、ひとまずお話を聞いてみようと思ったんです。面接に行ってみたところ、思いのほかスムーズに話が進み、気づけばトントン拍子でそのまま入社することになりました。

―陽子さんは会社員になるまで収入面で不安に思われたことはありましたか。

陽子さん:フリーランスの頃のメモを振り返ると、「よくこの状況で不安にならなかったな」と思うこともあります(笑)。ただひたすら目の前の好きなことを選びながら前に突き進んでいたからでしょうか。日本に戻ってからは実家に住んでいたこともあり、博報堂さんのお仕事がミニマムあったので、それでなんとか生活できていました。

― BMWでのお仕事はどうでしたか。ご自身の会社のお仕事も続けられていたのですか。

陽子さん:全国のあらゆるイベントを統括する部署の責任者をしていました。自分の会社は存続していたのですが、BMWの仕事があまりにも多忙で、当時自分の会社のことを考える余裕はほとんどありませんでした。ただ、やっぱり会社員になるとベースはぐっと上がって、収入面は安定しました。「なるほど。だからみんな会社をなかなか辞めないんだな」と、ちょっと納得したところもあります(笑)。

―その後はコカ・コーラに入社されていますね。ヘッドハントだったのでしょうか。

陽子さん:はい。いつもそうなのですが、自分が予期していない絶妙なタイミングで誰かが引っ張ってくれることで私の人生は動いていくなと。私は生まれも育ちも東京なので、東京でオリンピックが開催されると決まった時から何かしらの形で絶対関わりたい!!とずっと密かに思っていました。コカ・コーラは、オリンピックの最も歴史あるスポンサー企業のひとつなので、コカ・コーラのオリンピックチームに、しかも立ち上げの初期メンバーに入れるなんて自分にとって大変名誉なことでした。そこでは東京オリンピック・パラリンピックのコカ・コーラのパビリオンを作る責任者を務めていました。

―コロナ禍で本当に激動の時期でしたよね。大変な思いをされたのではないですか。

陽子さん:本当に、あのときは恐ろしい状況で。これまで経験してきた現場の中でも一番大変だったと思います。世の中がどうなるかわからない中で、ひたすらプランニングをして、変更しての繰り返しでした。しかもそれまでは毎日出社していたのに、「はい、明日からはリモートです」と突然言われて。

―想像を絶するほどのご状況だったと思います。オリンピックが終わってからは会社に残らず転職されたのですか。

陽子さん:プロジェクト終了後は、会社に残る選択肢も一応ありましたが、自分の中でやり切ったという実感があったんです。そんな中、自分が好きなブランドで、かつ新しいチャレンジができる環境を探していたところに、お声がけいただいたのがSpotifyでした。日本市場のBtoBマーケティングのヘッドとしてのポジションです。それで、妊娠の話になるのですが、入社してすぐ妊娠がわかったんです―――

前編を振り返って

前編では、陽子さんの多彩なキャリアと、人との出会いを大切にしながら進まれてきた人生をたどりました。未知の世界にも臆せず飛び込む行動力と、挑戦を重ねてこられた姿勢からは、強い熱意が伝わってきました。そして、日本にいる家族への想いから帰国を決断されたことも、心に残るエピソードでした。

後編では、40代での結婚・妊娠・出産という大きな転機を迎えた陽子さんが抱いた想い、そして子育てと仕事のあり方をどのように捉えながら暮らしているのかをお話しいただきます。

Yuna Suemune's avatar

By Yuna Suemune

本サイトの運営者。鉄道業界での建築設計、外資系メーカーでの営業・マーケティング業務を経て、家庭と仕事とのバランスを考慮し現在は正社員としての働き方をお休み中。得意なレイアウトデザインと一級建築士の資格を活かして、個人事業主として教材や資料制作などの仕事を行う。2025年1月に里帰り出産も兼ねて地元九州に移住し、3月に第一子を出産。福岡の自宅で仕事をしながら子育てに奮闘中。

Leave a comment