【後編】家族にとってベストな選択を積み重ねた12年。働けなかった時間に、得たもの〈Career Break Diary vol.5 大島加奈さん〉

キャリアブレイクダイアリーでは、キャリアの途中で立ち止まり、新しい人生を歩み出した人たちの声をお届けします。 前編では、ご結婚を機に信販会社を退職してから、息子さんの幼稚園・小学校受験に伴走するまで、大島加奈さんの道のりをお話しいただきました。後編では、休校が明けてからの歩みを伺います。 【前編】家族にとってベストな選択を積み重ねた12年。働けなかった時間に、得たもの〈Career Break Diary vol.5 大島加奈さん〉 コロナ禍は、どう過ごされましたか。 小学1年生の2月から休校になりました。全国の学校が休校になると伝えたニュース速報は、今でもよく覚えています。息子の小学校は慎重に判断していて、休校は6月まで続きました。 再開後も1日2時間の分散登校で、気がついたら1学期が終わっていた、という状況でした。その後、車での通学が許可されたため、毎日送り迎えをしていました。小学4、5年生まで、2、3年間ですね。自分でも、超過保護だと思います(笑)。でも、自分がしたいと思っていたので、ストレスではなかったです。 車が禁止になったタイミングで、働こうと思えば戻れたと思います。ただ、その頃は息子の成績が思わしくなく、ここで支えなければと感じて、再び仕事復帰を見送りました。 加奈さんが「働きたい」「働こう」と思われる理由は何ですか。 そもそもの性格として、ずっと家にいるタイプではありません。時間ができると何かしたくなるので、息子ともほぼ毎日どこかへ出かけていました。ですから、働きたかったというよりは、ずっと家にいる生活はしたくなかった、という方が近いと思います。 実際、小学5年生のときには友人の会社を3ヶ月ほど手伝いました。私のスケジュールに合わせてくれると言ってくださったのでお受けしました。ただ、その年に注文住宅の家づくりと引っ越しが重なり、家のことをすべて私が担っていたため、期間限定という形になりました。 その後12年ぶりに会社員として復職されていますが、どんなきっかけだったのでしょうか。 新卒で働いていた会社が、アルムナイネットワークという退職者向けのネットワークを導入し、同窓会のような懐かしい気持ちで登録したことがきっかけとなりました。 その集まりで、当時の人事部長から「手伝ってほしい」と声をかけていただきました。その方とは、私が現役の頃に全国を出張していた時期に福岡で出会っていて、お互いに覚えていました。退職者のネットワークを運営する上では、社内にも退職者にも知り合いが多い方がやりやすい。だからこそ、私に声がかかったのだと思います。出張が多かったぶん、400名を超える社員と知り合いでした。 声をかけていただくまでは、働くことは全く考えていませんでした。 「息子優先」を条件に復職されたと伺いました。具体的にはどんな働き方ですか。 一度悩んで、夫に相談して、自由が利くのであれば良いのではないかと考えました。「息子優先で働けるのであれば、ぜひお願いします」と伝え、復職することにいたしました。 息子の学校の用事を最優先にすること。息子が帰ってくるまでには家に帰ること。そして、長期休暇は休ませていただくこと。この3つのことはお伝えしました。 雇用形態はパートタイマーで、扶養の範囲内でした。こうした働き方をしている方は、社内にはいなかったと思います。 約2年勤められて、その仕事を離れることを決めたのはなぜですか。 人脈を生かした仕事内容にはやりがいもあり、人事全般の業務はとても楽しかったです。ただ、業務内容と待遇のバランスに悩むようになりました。給料について相談もしましたが、改善は難しい状況でした。 そんな中、今年3月にキャリアブレイクのイベントで薄井シンシアさんにお会いして、「実は私、低賃金なんです」とお話ししたら、「あんた今すぐやめなさい」と言われて(笑)。それがきっかけで、6月から本当に初めてちゃんとした就職活動を始めました。東京都の女性向けキャリアチェンジ・キャリアアップ支援事業にも応募し、支援を受け始めるところでした。そして、シンシアさんのご縁のある会社から内定をいただきました。背中を押していただき、本当に感謝しています。 ただ、実際に働いてみると、働き方の相性が合わない部分がいくつかあり、短期間で辞めることになりました。ご紹介いただいたのに申し訳ないという気持ちで、すごく悩みました。描いていた未来が全部なくなってしまう感覚もありましたが、今は気持ちを持ち直して、「息子と一緒にいられる時間が手に入った」と思っています。 12年を振り返って、いま思うことを教えてください。 自分ではどうにもできないことが本当に多かったのですが、その中でも自分のしたいことは、できる限り実現してこられたのかなと思っています。 仕事であれば、自分のことなので、「合わない」と感じたら辞めるという選択ができます。でも、息子のことになると「嫌だから辞める」ができないですよね。「この人は合わない」と思う相手であっても、一緒にいて何かを成し遂げなければいけない。そのときにどう向き合うか。人として一番成長できたのは、そこだったと思います。 日本の会社は、似たタイプの人が集まりやすいと思っています。その中では9割の側にいても、外に出た瞬間、自分がマイノリティだったと気づくことがある。会社の生活だけでは気づけなかったことでした。 学校の先生、塾の先生、習い事の先生、同級生のお友達。老若男女さまざまな方と、それぞれに合った関わり方をする。息子や夫のためにどうしたらうまくいくか、みんなが良くなるにはどうしたらいいか。そうやって考え続けてきた12年でした。 これから、どんな働き方をしたいと考えていますか。 東京都の支援事業のeラーニングで学んだり、資格の勉強をしたりしながら、就職活動を続けていくつもりです。仕事の内容としては、人事系のお手伝いをしてきたので、その領域に関心がありますし、英語を使ったお仕事や、経験してきたお受験・注文住宅についても何か仕事に繋げられると嬉しいです。また、自分の強みを考えると、自分が表に立つよりも、一緒に案を出しながら誰かを支える役割の方が向いているのではないかと思い、そうした仕事を模索しています。 息子のためにしっかり稼ぎたいという思いは、どんどん強くなっています。進学の際に、選択肢で迷わなくて済むようにしてあげたい。実は息子はいま、寮生活をしていて、離れて暮らしております。いざ離れてみると、一緒にいたいという気持ちの方が強くて。毎日出社してがむしゃらに働くと、休みのときにも一緒にいられなくなってしまう。あと数年は、一緒にいられる時間を大事にしたいと思っています。 インタビューを終えて 仕事をしている方が、いろいろな成長につながる。私はどこかでそう思い込んでいました。 でも加奈さんは、会社を出たからこそ気づけたことがあると話します。合わないと思っても辞めるという選択肢のない場所で、さまざまなタイプの方と関わり、一緒に何かを成し遂げていく。そこで人として一番成長できた、と。 子育てをされている間、「働けなかった」と加奈さんはおっしゃいますが、毎日の送り迎えと、復職の条件がそうであったように、その判断の中心にはいつも息子さんがいました。離れて暮らすようになって、かえって一緒にいたい気持ちが強くなったという言葉にも、それが表れていたように思います。 数年先を見据えて、加奈さんは次のステージへ向かっています。「働けなかった」と言うその時間に積み上げてきたものが、これからの加奈さんを支えていくのだと思います。 加奈さん、貴重なお話をありがとうございました。

【前編】家族にとってベストな選択を積み重ねた12年。働けなかった時間に、得たもの〈Career Break Diary vol.5 大島加奈さん〉

キャリアブレイクダイアリーでは、キャリアの途中で立ち止まり、新しい人生を歩み出した人たちの声をお届けします。 今回お話を伺ったのは、大島加奈さんです。 加奈さんは岩手県出身、東京都在住。大学卒業後、信販会社に新卒入社し、営業として約6年勤務。全国転勤のある夫との結婚を機に退職し、夫の勤務地である静岡へ。2013年に男の子を出産、夫の転勤に伴い再び東京へ戻ります。以降、約12年間のキャリアブレイク。息子さんの幼稚園受験・小学校受験に伴走し、2024年、新卒入社した企業へパートタイマーとして復職。現在は、次のキャリアを描き直している最中です。 約12年お仕事から離れられたのは、ご自身で選んだ選択だったのでしょうか。 実は少し特殊で、「キャリアブレイクをしよう」と最初から決めていたわけではありません。その時々で、自分にとってベストだと思える選択を積み重ねていった結果、気づけば仕事から離れる期間が長くなっていました。どちらかというと、状況に合わせて自然と流れに乗っていった、という表現が近いかもしれません。 約6年勤めた会社を辞めた理由を教えていただけますか。 私も夫も全国転勤のある仕事をしていました。夫が静岡に赴任していた時期に結婚が決まったのですが、私自身もいつどこへ転勤になるかわからない状況でした。このまま働き続ければ、結婚しても別々に暮らすことになる——当時の私にはその選択肢は考えられませんでした。「それなら辞めよう」とすぱっと決めたのを覚えています。迷いはほとんどありませんでした。 出産後、働くという選択肢は考えられましたか。 結婚して静岡に移り住み、ほどなくして息子を授かりました。生後半年の頃に夫の辞令で東京へ戻ることになり、私も仕事復帰を考えて保育園を調べました。しかし、当時は専業主婦で、さらに夫の実家の近くに住んでいたこともあり、保育園の入園基準を満たせず、預けることができませんでした。預け先が見つからなかったため、そのタイミングでの仕事復帰は選びませんでした。 仕事復帰をしないと選択したとき、どのようなお気持ちでしたか。 シンシアさんのように「この子と一緒にいる」と前向きに決めたというより、「預けられないし、一緒にいなきゃ」という気持ちでした。ただ、生まれてみたら想像より「かわいいな」と思い、一緒にいたいと思うようになりました。 それに、東京に戻ったとはいえ、次にどこへ転勤になるかわからない状況でした。もし住む場所が変わらないとわかっていたら、働くという選択をしていたかもしれません。 ご自身の中に「母親のモデル」はありましたか。 私の母はずっと働いている人でした。当時は産休や育休の制度が今ほど整っていなかったので、ぎりぎりまで働き、産んだらすぐに預けて復職していました。保育園の先生のほうが私のことをよく知っている——そんな環境で育ちました。一方で、夫の母は専業主婦でした。 その二つのモデルが自分の中にある状態でした。私はきっと実の母のように働くのだろうと思っていましたが、心境が変化し、義母のような生き方もいいなと思うようになっていきました。ただ、自分自身は「母と密に過ごす」という経験をしてこなかったので、親子の距離感やあり方がよくわからず、常に迷いがありました。これでいいのかな、と。 お子さんは幼稚園から受験されていますが、どのような思いがあったのですか。 順番としては、小学校受験を決めたのが先でした。理由はシンプルで、息子には夫のような人に育ってほしいと思い、夫の母校を目指すことにしました。 その小学校に進むために親和性のあるところを、と選んだのが家の近くの幼稚園でした。そこがたまたま、いわゆる「お受験幼稚園」でした。 正直に言うと、ずっと息子と二人でいるのは疲れるだろうな、と想像していました。受験という通過点ができたことで、習い事などで外出する機会が増え、社会とのつながりを持ち続けることができました。また、息子もいろいろな人と関わることで成長につながったと思います。受験に向けて家族で協力し合えたことも、絆を深めるきっかけになりました。結果として、受験して良かったと感じています。 当時を振り返って、いま思うことはありますか。 1歳前くらいから、いろいろな教室に通わせ始めました。当時の東京はそうした空気に満ちていて、何かさせなければいけないのではないかという焦りに流されてしまったところがあります。受験について私自身が十分に理解していなかったこともあり、教室で言われたことをそのまま実践していました。今振り返ると、あんなにしなくてもよかったのだろうなと思うことを、たくさんしてしまいました。後悔もあります。 ただ、その時代の、そのタイミングで、私たちなりのベストを選んでいたとも感じています。幼稚園の頃には、親子で2年続けてハワイに短期留学もしました。 受験に向かう日々の中で、悩みを相談できる相手はいましたか。 子どもの受験について相談できる友人はいませんでした。とにかく一人でがんばっていた記憶があります。 その一方で、産んだ病院の集まりが月に一度あり、参加できる人が集まって話をする場がありました。また、習い事で知り合った方々とも交流が生まれ、そうした場が自然と情報交換の場になっていましたね。 お子さんが小学校に上がってからは、働くことを考えられましたか。 考えていました。1年生のゴールデンウィークまでは付き添うと決めていて、慣れてきたら仕事を探し始め、働こうかな、と。 ただ、1年生の5月に登下校中のトラブルがあり、「お母様、しばらく付き添いをお願いします」と学校から言われてしまいました。それがとてもショックで、一人で学校に行ってくれれば私は仕事を始められたかもしれないのに、と感じ、息子を責めてしまったこともあります。 それでも、来年になれば少しは動けるかもしれない——そう思っていた1年生の2月に、学校が休校になりました。コロナが始まったのです。 前編を振り返って 「働こう」「仕事を始められたかも」。加奈さんはそう振り返ります。働く道が見えかけるたび、家族の事情が重なっていきました。 それでも、ご主人の住む先へ移り、息子さんの未来のために受験に伴走する。二人の母のモデルの間で、家族の状況に合わせてご自身の立場を選ばれてきました。その柔軟さは、これから私が家族と向き合う場面でもきっと必要になるものだと思いました。 後編では、先の見えない休校が始まってから、12年ぶりの復職、そして今に至るまでを伺います。

英語×教養×知的好奇心を育むブッククラブ──ELC代表・五味奈津子さん

The blog introduces Sachiko’s journey in English learning and highlights her experiences at the English Library Café led by Natsuko Gomi. It emphasizes the benefits of engaging with diverse perspectives through reading and discussion, fostering intellectual curiosity. Natsuko’s story showcases the transformative power of language in personal and professional growth.

英語、キャリア、そして飾り寿司~異文化をつなぐ私の挑戦~AT Globe 鈴木美加子さん

Hi there! Welcome to my blog. こんにちは、Sachikoです。 英語を「話せるスキル」で終わらせず、どうキャリアにつなげ、どう人生に活かしていくのか。このブログでは、英語を軸に自分らしい道を切り拓いてきた方々の、等身大の経験と選択をお届けしています。 今回ご紹介するのは、外資系企業の人事部門で長年経験を積み、2014年に株式会社AT Globeを設立された鈴木美加子(美加子さん)さんです。 「世界で活躍できる日本人を育てたい」という想いのもと、グローバル人材育成に取り組む一方、近年は海外からの旅行者向けに飾り寿司教室という新たな事業もスタートされました。 英語との出会い、外資系企業でのキャリア、起業への挑戦。そして日本文化を世界へ発信する新たな取り組みについて、お話を伺いました。 ニューヨーク生まれの帰国ベイビー 商社勤務だったお父様のニューヨーク駐在中に生まれたという美加子さん。 幼少期の記憶はないそうですが、海外を身近に感じる家庭環境で育ちました。 人生の転機となったのは大学3年生の夏休み。当時ドイツにお父様が単身赴任されていて、「成人式の晴れ着は要らないから、大学3年生の夏休みにドイツに行きたい」とご両親と交渉しドイツ行きを実現させたのが本格的海外体験でした。 ヨーロッパでは多くの人が英語でコミュニケーションを取る中、自分だけが英語を話せない——。その残念さが英語学習への強い原動力になったといいます。 「英語を使って仕事がしたい」 「多様な環境で働きたい」 今につながる思いは、この時に芽生えたそうです。 外資系企業へ飛び込む決意 大学3年生から本格的に英語を学び始めた美加子さんは、卒業後にGE Japanへ入社します。 当時はまだ外資系企業への就職が今ほど一般的ではありませんでしたが、ジャパンタイムズでGE Japanの求人を見つけたことが大きな転機となりました。 お父様から「今、アメリカでNo.1の企業だよ」と言われ、挑戦への後押しになったそうです。 その後も複数の外資系企業で人事として経験を重ね、キャリアを築いてこられました。 若い頃は昇進のスピードを重視していた一方で、30代半ばを過ぎてからは、「どのような環境で働くか」をより大切にするようになったといいます。 日本法人に十分な裁量権があり、上司が外国人で、多様なバックグラウンドを持つ社員が集まる環境を意識して選んできたそうです。その背景には、「多様性の高い職場で働きたい」という一貫した思いがありました。 外資系企業ではOJT(On the Job)トレーニングで様々な経験を積むことが通常です。外資系キャリアを構築する過程で「強み」を活かすのが何よりとのこと。 美加子さんご自身、外資系企業でのさまざまな経験を通じて、強みを磨きながらキャリアを構築されました。 キャリア迷子の時期 キャリアのスタートは人事職でしたが、若い頃から抱いていたファッション業界への憧れを捨てきれず、32歳のときに思い切って転職を決意します。年収が半分になることも覚悟のうえで、オートクチュールメーカーのマーケティング職に挑戦しました。 しかし、実際に働いてみると、自分が本当に力を発揮できる仕事ではないことに気づきます。結果として、人事の道へ戻ることになりました。 この経験を通じて実感したのは、「自分に合った企業文化を見極めることの重要性」でした。 美加子さんによると、企業との相性を考える際には、①企業の成長段階、②企業規模、③求められる仕事のスピード――という3つの軸が重要だといいます。これらが自分の価値観や働き方と合致していないと、能力の有無にかかわらず職場で孤立感を抱いてしまうことがあるそうです。 だからこそ、職種や待遇だけでなく、自分がどのような環境で最も力を発揮できるのかを理解したうえでキャリアを選択することが大切だと語ってくださいました。 外資系で活躍するために必要なこと 美加子さんが考える、外資系企業で活躍するために欠かせない要素は3つ。 アサーティブネス(自分の意見を適切に伝える力) ロジカルシンキング 多様な人材と協働する力 特に印象的だったのは、アサーティブネスを身につけるためのアドバイスです。 「いきなり大きなことをする必要はありません。ランチを注文するときに自分で選ぶことや、誘いを上手に断ることなど、日常の小さな場面から意見を伝える練習をするといいんです。」 確かに、日本人は「空気を読む」ことが得意な一方で、自分の意見を明確に伝える経験が少ないかもしれません。 こうした日常の積み重ねが、グローバルな環境でのコミュニケーション力につながるのだと感じました。 外資系で求められる英語力とは? 美加子さんによると、「外資系に必要な英語力」は業界や職種によって大きく異なるため、一概には言えないそうです。 例えば、営業職や技術職であれば、スタッフレベルでTOEIC500点程度から挑戦可能な場合もあります。一方で、海外とのやり取りが多いマーケティングや人事では、より高い英語力(スタッフで750点程度、マネージャーでは800点以上のレベル)が求められる傾向があります。 大切なのは、求人内容をよく確認し、自分が目指す職種に必要な英語力を見極めること。英語力だけでなく、職種ごとの専門性や経験とのバランスを意識することが、グローバルキャリアへの第一歩だと感じました。 起業、そして日本文化を世界へ オーストラリアでの生活を経て帰国した美加子さんは、「働く時間や場所を自分で選びたい」という思いを強く抱くようになり、2014年に株式会社AT Globeを設立されました。… Continue reading 英語、キャリア、そして飾り寿司~異文化をつなぐ私の挑戦~AT Globe 鈴木美加子さん

音楽とご縁が導いた国境を越えるキャリア:AOMビザコンサルティング代表足利弥生さん

Hi there! Welcome to my blog. こんにちは、Sachikoです。 英語を「話せるスキル」で終わらせず、どうキャリアにつなげ、どう人生に活かしていくのか。このブログでは、英語を軸に自分らしい道を切り拓いてきた方々の、等身大の経験と選択をお届けしています。 今回ご紹介するのは、AOMビザコンサルティング代表の足利弥生(弥生さん)さんです。 幼少期をアメリカで過ごし、音楽大学でピアノを学んだ後、IT企業、オーストラリア大使館、外資系金融機関を経て起業という、ユニークなキャリアを歩んでこられました。現在はオーストラリアを中心としたビザコンサルティングを手がけ、多くの方の海外挑戦をサポートされています。 一見すると異なる分野を渡り歩いてきたように見える弥生さんですが、そのキャリアの背景には「海外への憧れ」と「人とのご縁」そして「音楽」という一貫したテーマがありました。今回は、これまでの歩みや海外移住に対する思い、そしてこれからの時代を生きる若い世代へのメッセージを伺いました。 海外への憧れは幼い頃から 弥生さんは4歳頃までアメリカで過ごした帰国子女です。記憶自体はあまり残っていないそうですが、英語教育に熱心だったお父様の影響は大きかったといいます。 また、お母様が音楽大学出身だったことから、自身も自然と音楽の道へ。幼い頃からピアノに親しんできました。 ピアノと英語を両立しながら「いつか海外へ行きたい」という思いを育んでいったそうです。 そして26歳のとき、その夢を実現するためにニュージーランドへワーキングホリデーに出発します。 当初は、就労が可能な国という条件でオーストラリアを考えていたのですが、ビザの発給上限に達してしまって申請できず、急遽ニュージーランドに行くことになったそうです。 当時は今ほどインターネットが普及しておらず、海外で働く方法としてワーキングホリデーが最も現実的な選択肢でした。 帰国後のキャリアも見据えて旅行主任者資格を取得し、現地ではホスピタリティ業界で活躍。ピアノ演奏ができる観光ガイドとして人気を集めたこともあったそうです。 音楽から移民政策の世界へ ニュージーランドから帰国後、弥生さんのキャリアは思いがけない方向へ進みます。 オーストラリア大使館のイミグレーション部門で働くことになったのです。 当時は電子渡航認証(ETA)の導入期で、大使館は多忙を極めていました。そこに帰国のタイミングが重なったそうです。 ビザ審査官として多様な国籍や背景を持つ人々と向き合う中で、日本がいかに平和で恵まれた国であるかを実感すると同時に、オーストラリアの移民政策と日本の人口問題について深く考えるようになったそうです。 その関心は学び直しにもつながります。大使館の図書館で出会った移民政策の専門書がきっかけとなり、働きながら慶應義塾大学法学部で学位を取得されました。 グローバル企業を経て起業へ その後、弥生さんは大使館からリーマンブラザーズ証券会社へ転職します。 グローバル企業の人事部門で経験を積む中で、ビザに関する専門知識が大いに活かされました。さらにEU系投資銀行でもHR(人事)業務に携わり、国際的なビジネス環境を学び続けます。 興味深かったのは、新たな転職や挑戦の多くが「人とのつながり」から生まれていたことです。 思いがけない破綻により、後に起業を決意したのも、大使館時代の元同僚からの提案がきっかけだったといいます。 「自分一人では思いつかなかったと思います」 そう語る弥生さんの言葉からは、人との出会いを大切にする姿勢が伝わってきました。 海外移住から見える日本の未来 15年以上ビザコンサルティングに携わる中で、弥生さんは日本の将来に強い問題意識を持つようになりました。特に、高度なスキルを持つ人材が海外へ活躍の場を求める傾向や、リモートワークの普及によって富裕層や専門職、起業家などの海外移住のハードルが下がっていることを懸念しています。 一方で、若い世代の海外志向は以前ほど高くないと感じており、「海外を知らなければ成長の機会を逃し、将来のイノベーションも生まれにくくなる」と指摘します。 また、人口減少が進む日本では、長期的な視点に立った人口政策が不可欠だと考えています。既存のビザ制度を戦略的に活用し、人材獲得や地域活性化につなげる仕組みづくりが必要だと訴えます。 著書『海外移住は人生や社会にイノベーションを起こす』では、日本人の海外移住の現状、日本の人口政策、そしてオーストラリアの可能性という3つのテーマを発信しています。 海外経験は個人のキャリアの幅を広げるだけでなく、新たな視点や価値観をもたらし、社会やビジネスのイノベーションにつながる――。そんな弥生さんの強い信念が伝わってきました。 女性だからこそ広がる可能性 女性のキャリアについて、弥生さんは「女性のほうが好奇心旺盛な方が多いように感じます」と語ります。海外経験は、自身のキャリアや生き方を前向きに見つめ直すきっかけになることも少なくありません。 日本では出産や育児との両立など、女性が直面する課題も依然としてあります。だからこそ、「もっと世界に出て、多様な経験を積んでほしい」と弥生さんはエールを送ります。大切なのは、自ら行動し、人とのつながりを広げること。そして目標と時間軸を持ちながら、一歩ずつ前に進むことだといいます。 また、女性同士だけのコミュニティにとどまらず、幅広い世代や多国籍の人々との交流を通じて、本当に関心のあることを見つけることで、自分らしいキャリアの方向性が見えてくると話してくれました。 最後に 弥生さんのお話を伺っていて印象的だったのは、「ご縁」という言葉が何度も出てきたことでした。 音楽、海外経験、学び直し、転職、そして起業。一つひとつの出会いを大切にしながら、自らも準備と努力を重ねてきたからこそ、現在のキャリアにつながっているのだと思います。 「マニュアルはない。自ら行動し、ネットワークを築くことが大切。」 その言葉は、海外に挑戦したい人だけでなく、これから新しい一歩を踏み出そうとしている私たち全員へのエールにも聞こえました。 弥生さん、貴重なお話をありがとうございました。 弥生さんの著書についてのご案内は下記のリンクをチェックしてください。 「海外移住は人生や社会にイノベーションを起こす」~日本を超えて描く自由な未来~  書籍 出版のご案内 | オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ・ドバイ・イタリアビザ AOM… Continue reading 音楽とご縁が導いた国境を越えるキャリア:AOMビザコンサルティング代表足利弥生さん

英語で拓くキャリアは続く:通訳ガイド・石川弘さん

Hi there! Welcome to my blog.こんにちは、Sachikoです。 英語を「話せるスキル」で終わらせず、どうキャリアにつなげ、どう人生に生かしていくのか。 このブログでは、英語を軸に自分らしい道を切り拓いてきた方々の、等身大の経験と選択をお届けしています。 今回のゲストは、石川弘(いしかわ・ひろし)さんです。製薬会社で長年キャリアを重ね、アメリカ、オランダ、フィリピンの3か国で海外駐在を経験。定年退職後は、通訳ガイド(全国通訳案内士)、財団での活動、英語勉強会の運営と、いくつもの顔を持ちながら、今もなお精力的に活動されています。 私自身、キャリアの後半に差しかかり、「いつか通訳ガイドをやってみたい」と思うようになりました。 そこで今回は、英語とキャリアの関係、そして通訳ガイドという働き方について、石川さんにじっくりお話を伺いました。 「英語は、会社に入ってから本気でやり始めました」 —— 海外駐在を何度も経験されていますが、英語はもともと得意だったのでしょうか? 「いえ、決して最初から得意だったわけではありません。大学は薬学部で、卒業後は中小の製薬会社に入りました。ちょうど会社が海外進出を目指し始めた時期で、私は国内営業に配属されたんですが……国内営業は、完全な“レッドオーシャン”だったんです。 一方で海外部門を見ると、人が足りない。『ここなら勝負できるかもしれない』と思ったのが、最初の動機でした」 当時、社内では「社内英検」という制度があり、合格すれば国際部勤務を経て、海外駐在のチャンスが得られる仕組みがあったそうです。 「英語自体は好きでしたが、本気で勉強し始めたのは入社後です。高校時代に英検2級を取った程度。社内英検は3回目でようやく合格し、国際部に配属されました」 国際部での最初の3年間は、徹底した“書く英語”の訓練。 「テレックスや英文メールの書き方を、徹底的に叩き込まれました。課長に原稿を出すたび、赤字だらけで返ってきて……」 どれくらい書けば英文はうまくなるのか、と聞いたときの答えが印象的だったそう。 「『1トントラック一杯分くらい書いたらね』って(笑)。今思えば、あれがすべての土台でした」 駐在地ごとの記憶――ニューヨーク(米国)、アムステルダム(オランダ)、マニラ(フィリピン) —— 特に印象に残っている国はありますか? 「どの国にも思い入れはありますが、やはり最初のアメリカ、ニューヨークですね。30歳直前での赴任で、当時は日本人なら誰もが憧れる街。あの文化の中で生活できたことは、今でも鮮明に覚えています」 最後の赴任地・フィリピンでは、経営者としての経験を積みました。 「ジェネラルマネージャーとして、営業、労務、会計まで会社経営の全体を見る立場でした。労使問題がこじれて、脅迫状のようなものが届いたこともあり、本社と緊急で相談したこともありましたね」 オランダでは、ヨーロッパならではの価値観に触れたといいます。 「皆、自分なりの“人生の楽しみ方”をよく知っている。仕事と生活のバランスの取り方には、本当に学ぶことが多かったです」 「英語を維持し、海外でお世話になった方々への恩返しがしたかった」 —— 定年後、通訳ガイドを目指された理由は? 「理由は二つあります。ひとつは、英語力を維持し、できればさらに高めたいという思い。もうひとつは、海外でお世話になった方々への“恩返し”です」 駐在先では、現地の人々に名所を案内され、食事を共にし、多くの親切を受けた。 「だから今度は、日本に来る外国の方に、日本の文化や食、人の魅力を伝えたい。そう考えたとき、通訳ガイドという仕事が一番しっくりきたんです」 製薬会社時代の経験も、今に生きています。 「英語力に加えて、コミュニケーション力ですね。それに、ガイドをしていると必ず『今までどんな仕事をしてきたの?』と聞かれます。自分のキャリアそのものが、会話のコンテンツになるんです」 通訳ガイドの仕事は、こうして始まった —— 通訳ガイドの資格(全国通訳案内士)を取得された後、実際にはどのようにお仕事を見つけたのでしょうか。 正直に言うと、資格を取ったあと、“どうやって仕事を取るのか”はまったく分かりませんでした」 転機は、通訳ガイド二次試験(面接)対策講座。 「その講座を行っていた旅行会社の講師の方が、とても印象的だったんです。『ここなら、きちんとガイドを育てている』と感じました」 その旅行会社は、築地観光を専門とする会社。契約までのプロセスは、想像以上に本格的でした。 「まずはコミュニケーション研修を受けます。その後、実際に築地場外市場を廻りながら日本語で研修を受けます。次に一次試験として、他の日本人4人とともに場外市場を廻り、一人一人、ランダムに割り当てられた5コースのうち1コースを20分で英語で説明します」 一次試験を通過すると、実地の二次試験。 「二次試験は、外国人のお客様を実際にお招きして、90分間築地を英語で案内します。これに合格すればガイド委託契約、という流れでした。『これに受かれば仕事が始められるんだ』と思って、本当に必死でしたね」 二次試験翌日には連絡があり、無事合格、そしてその後委託契約締結。 「二次試験では、お客様(外国人)の評価が合否の重要要素だったようです。ありがたいことに、良い評価をいただけたようでした」 初ガイドの日、忘れられない一言 コロナ禍を経て、2022年に通訳ガイドとしてデビュー。最初のツアーは築地でした。 「正直、不安しかなかったです。自分の英語と知識で、本当にお金をいただいて満足してもらえるのか、と」 しかし、90分のツアーを終えたあとの反応は、想像以上。 「『とても良かった』『もう何年もやっているかと思った』と言われて。『実は今日が初めてなんです』と伝えたら、ものすごく驚かれて(笑)。あのときのお二人の表情は、今でも忘れられません」… Continue reading 英語で拓くキャリアは続く:通訳ガイド・石川弘さん

何歳でも英語で人生を変えられる:英語コーチきなこさん

Hi there! Welcome to my blog. こんにちは、Sachikoです。 英語を「話せるスキル」で終わらせず、いかにしてキャリアへとつなげていくのか。このブログでは、英語を軸にキャリアを切り拓いてきたSachikoが、第一線で活躍する“英語の達人”たちに、そのリアルな秘訣を伺っています。 今回のゲストは、Xフォロワー5.9万人を誇る英語コーチ、「きなこ」さんこと伊藤さなえさん。 きなこさんは、名古屋大学の後輩で私と同じく公務員経験をお持ちです。様々な経験を経て、現在は起業を果たされ、学研より『ひとめでわかる!英語ビジュアルマップ』を上梓されるなど、英語学習の分野で注目を集める存在です。 しかし、現在に至るまでの道のりは、決して華やかな成功物語ではありませんでした。思うように進まない現実の中で、数々の選択と葛藤を重ねながら、「自分は何者で、何をやりたいのか」を問い続けてきました。 迷いや挫折を経験したからこそ見えてきた、“今の自分”へとたどり着くまでの道のりとは。 素直さと人とのご縁を何より大切にしながら、一歩一歩前へと進んできたきなこさん。その軌跡と胸の内を、じっくりと伺いました。 学生時代から芽生えていた、言語学への興味 ――英語学習はいつ頃から始められたのでしょうか? 近所に英会話スクールがあって、子どもの頃から通っていました。当時は英語の名前をつけられるのが少し恥ずかしくて、「Susie」と呼ばれることに違和感を覚えていましたね。「私はSusieじゃないのに」って(笑)。それでも、自然と英語に触れられる環境が身近にあったのは大きかったと思います。 ――名古屋大学では言語学を専攻されていますが、学生の頃から英語は得意だったのですか? 実は、英語でのコミュニケーション自体はあまり得意ではありませんでした。ただ、中学・高校の頃に文法や構文を読み解くことが本当に面白くて。難しい文章を一つひとつ分析して理解していくプロセスに、気づけば夢中になっていました。その延長線上に、言語学という専攻があったんです。 その後、日本大学の通信制課程で教員免許を取得し、日本語教師の資格も取りました。日本語教師養成の過程で初めて第二言語習得理論を体系的に学んだのですが、これは今の英語指導にダイレクトに生きています。言語学で学んだ知識も、たとえば時制(出来事の時間的な位置)とアスペクト(出来事の状態・進み方)の違いなど、学習者がつまずきやすいポイントを見極めるうえで大きな助けになっていますね。 公務員という「安定」から、一歩踏み出す決断 ――大学卒業後は国家公務員になられたそうですね。 はい。大学に通いながら、予備校で公務員試験の勉強をしていました。当時はまだ国立大学職員が国家公務員だったんです。今は独立行政法人に変わっていますけど。名古屋大学に就職して、いわゆる安定した道を歩み始めました。 ――そこから、その安定を手放す決断をされたのですよね。 そうなんです。最初の配属先で、英語を使う機会が多かったのですが、それがすごく楽しくて。コミュニケーションの面白さに初めて気づきました。そこから英会話教室にも通い始めて、「英語を突き詰めて仕事にできたら楽しそうだな」と思うようになったんです。 ただ、公務員だと3〜4年ごとに異動があるため、せっかく磨いた英語力を、次の配属先で生かせるかどうかは分からない。「もっと英語を深く学びたい」「これを仕事にしたい」という思いが、だんだん強くなり留学したいという気持ちにつながりました。 ――カナダ留学を決意したとき、怖さはありませんでしたか? 正直、ものすごく怖かったです。名古屋大学を出て国家公務員になって、周囲からはうらやましがられるようなレールに乗っている状態から脱線するのは勇気がいりました。また、実家が裕福ではなかったので、現実的な不安も大きかったですね。ただ、今だから言えるのは、「決断してよかった」ということです。もちろん、その後は苦労の連続で、途中で自分の決断を呪ったことも何度もありました(笑)。それでも、その経験があったからこそ、今の自分がある。そのすべてが、いまの原動力になっているんじゃないかなと思います。 カナダ留学で得たもの ――カナダ留学で得たものは何ですか? 一番大きかったのは、価値観が大きく変わったことですね。私はこれまで、何かしらの「型」や組織に属して生きるのが得意なタイプだったんです。でもカナダでは、どこにも所属していなくても、きちんと自分を評価してくれて、自然に仲良くなれる人たちがいると知りました。 学歴や職歴、年齢といった肩書きで判断されることがほとんどなくて、「その人自身」を見てくれる。だからこそ、何歳になってもチャレンジしていいんだ、という感覚を持てるようになりました。 帰国直後に待っていた、試練の時間 ――帰国後の就職活動は順調でしたか? それが、帰国したのがちょうどリーマン・ショックの時期だったんです。本当に最悪のタイミングでしたね。TOEICは985点まで伸びていましたし、英語も話せるようになっていたので、「就職は何とかなるだろう」と思っていたのですが、そもそも求人がほとんどなくて。 公務員の経歴は民間ではあまり評価されないと分かっていたので、派遣から始めようと考えていました。でも、それもなかなかうまくいかず、ようやく決まった外資系企業のお仕事もしばらくして事業縮小でなくなってしまいました。さらにその頃、結婚を考えていた相手との別れも重なってしまって。失業と失恋が同時に来て、軽く引きこもっていました。 ――そこから、どうやって立ち直られたのでしょうか? 正直、その時点では「自信があるのは公務員試験にパスするスキルだけ」でした。だから名古屋市の学校事務職員試験を、年齢制限ギリギリで受けて、何とか滑り込みました。 ただ、いざ安定すると、また「やっぱり英語の仕事がしたい」という気持ちが湧いてきたんです。そのころには、結婚もして、すでに30代になっていました。 ここから何ができるのかを考えて、まずは教員免許を取ってみようと思いました。33〜34歳の頃、日本大学の通信教育課程に入学したんです。教員免許を取るまでには思ったより時間がかかってしまったのですが。 転機を呼び込んだ「ご縁」と「素直さ」 ――英語を軸にキャリアを切り開いていこうと決心された、ターニングポイントはどこにありましたか? 小学校での仕事を通じて、偶然が重なり英語を使う機会が少しずつ増えてきた頃、転職サイトを見るようになったんです。そこで見つけたのが名古屋大学の国際労務担当の研究員のお仕事でした。学位は不要で、学士号があり、TOEIC900点以上の実力があれば応募できるという条件だったんです。 英語力だけでなく専門性も求められる仕事だったので、決して楽ではありませんでしたが、研究員として働く日々はとても充実していました。 研究員の期間中に出産も経験し、産休・育休中に教育実習をこなしてようやく教員免許を取得することができました。 研究員の任期が終わる予定だった時には、「特殊な業務を担当しているから、ぜひ引き続き残ってほしい」と声をかけていただいて。仕事へのやりがいも強く感じていました。 ただ、ここでまた私の悪い癖が出てしまって(笑)。「任期がいつ終わるかわからないこの状況のままでいいのかな」と迷った末に研究員の仕事を離れ、名古屋市立大学の準公務員試験を受けて、再び“安定”の道を選んでしまったんです。 結局、その安定も、最終的には子育てとの両立が難しくなり、夫との関係がうまくいかなくなったことで終わりを迎えました。その後、専業主婦となり、「何か自分でできることはないか」と思い、ブログを書き始めたんです。 ――難しい局面で周囲のアドバイスを上手に生かしていらっしゃいますよね。 私自身、かなり素直なタイプなんだと思います。誰かに「これをやったらうまくいくよ」と勧められて、そこにある程度納得できるロジックが見えたら、まずは試してみるようにしてきました。例えば、あるブログの先生から「文章がうまいから、X(旧Twitter)をやったほうがいいよ。1万人くらいすぐいくと思う」と言われたことがあって。「いやいや、さすがに無理ですよ」と思いながらも、少しおだてられて始めてみたら、本当に半年でフォロワーが1万人を超えたんです。 そうしたアドバイスを信じて動いてみたこと、そして人とのご縁が重なったことで、結果として道が開けていったのだと思います。 英語コーチとしての独立 ――英語コーチになったきっかけは何だったのでしょうか? X(旧Twitter)のDMを通じて、英語コーチング企業からスカウトをいただいたのがきっかけでした。詳しく話を聞いてみると、子どもが寝たあとでも仕事ができて、通勤も不要。日中は確かに仕事が少ないのですが、その時間を使って添削作業ができる。「これはすごく育児と相性がいい働き方だな」と感じたんです。 当時は、専業主婦をしながらXをしていただけでした。育児の合間にSNSを続けつつ、同時に国家資格キャリアコンサルタントの勉強も始めていました。 ――キャリアコンサルタントの資格を取ろうと思われた理由は?… Continue reading 何歳でも英語で人生を変えられる:英語コーチきなこさん

「人生の種まきをしよう」『おうち英語』著者・小河園子さん 

Hi there! Welcome to my blog. こんにちはSachikoです。 英語はあなたのキャリアにどんな影響を与えていますか? どうすれば「キャリアの武器になる英語」を身に着けられるのでしょうか。 英語を軸にキャリアを紡いできたSachikoが英語の達人のみなさんにその秘訣を伺います。 今回ご紹介するのは、「気が付くと子どもの英語力がぐんぐん伸びている おうち英語」を上梓された伝説の英語教師小河園子さんです。 「人生の種まきをしよう」『おうち英語』著者・小河園子さん  「いつどこで芽を出すか分からない種を、日々まいておく。 その積み重ねが、気づけばキャリアと子育てをつないでくれました。」  43年にわたって公立高校で英語教育に携わり、定年後は大学でも教壇に立つ。 そして近年は『気が付くと子どもの英語力がぐんぐん伸びている おうち英語』を上梓し、SNSやイベントでも発信を続ける――。 小河園子(おがわ・そのこ)さんに、教員としての歩み、子育てとの両立、 “種まき”というキャリア哲学、そして次の目標について伺いました。  「英語という切り札で乗り切れる」――教員を志した原点  ――教員になろうと思ったきっかけを教えてください。 外交官など他の道も考えましたが、いずれ結婚や出産を経ても長く働き続けたいという思いが強かったんです。そこで、自分の“切り札”である英語で勝負できる職場を求めて、教員を選びました。 就職当時(約40年前)は、外資系で英語を武器にバリバリ働く選択肢が今ほど一般的ではなくて。TOEICで900点を超える英語力があっても、あえて地味に見える公立高校を選びました。結果的に、それが私の軸になりました。  43年の教員人生――“進学校”から“進路多様校”まで  ――どのような学校で教えられてきましたか。 主に公立高校です。キャリアの締めくくりは県立浦和高校で約11年。その前は浦和第一女子高校、キャリア中盤は新設10年目の埼玉県立南稜高校(いわゆる進路多様校)に勤務しました。 高校教員の定年後は、大学でも教えています。異なる校風・学力層の生徒と向き合った経験は、今の指導にも大きく生きています。  子育て期の“横展開”――直線ではなく、英語に触れ続ける導線づくり  ――長いキャリアの中で子育ても。どのように継続されたのでしょう。 正直、我慢の時期もありました。周囲の先生が次々と本を出したり「出世」をしたりするのを横目に、私は母親業を優先。その分、定年後に活動の幅を広げています。 子育て期(幼稚園年中から高校卒業までの14年間)は、いわゆる“進学校”とは別の、多様な進路を歩む生徒が多い学校で教えました。そこで意識したのが、毎日英語に触れる導線を持ち続けること。授業に加え、国際交流担当に手を挙げ、オーストラリア研修旅行の引率など、英語が“仕事の中心”になる機会を自らつくりました。  キャリア一直線で管理職を目指す人たちが手を挙げにくい業務ほど、私は進んで引き受けました。脇道のようで、実は自分の軸を太くする道だったからです。  あえて“敬遠されがちな仕事”を選ぶ理由  ――なぜ、人がやりたがらない仕事を積極的に? 英語ディベート部の顧問や国際交流は、時間も手間もかかるし、成果も不確実です。でも、企画段階から関われる「おいしい仕事」でもあるんです。海外の先生(オーストラリア、イギリスなど)とメールをやり取りし、ホームステイの受け入れも毎年のようにやりました。  家族の助けも借りながら、我が家に外国人が泊まる環境を整えました。これは息子にとっても大きな財産になりました。 また、学校では日本人の先生たちが遠慮するネイティブの先生の隣の席を、私は「無料の英会話教室」だと思って確保。雑談から頼まれ事や相談が舞い込み、さらに英語の実践機会が増える。自分の強みを日常の中で回し続ける工夫です。  「国際交流に、子どもを巻き込む」  ――ご家庭にも国際交流を取り入れていたとか。 着任したばかりのオーストラリアやアメリカ、カナダ出身の先生と市役所での各種手続きを一緒にこなすなど、生活面のサポートもしました。小学生の息子は会話の中身をどこまで理解していたか分かりませんが、英語の音や多様な文化を“空気ごと”浴びる経験になったはず。また、息子は、「世界には、いろいろな人がいる」ということを実体験を通じて学ぶことができました。 種が花開いて誕生した『おうち英語』  ――書籍『おうち英語』はどのように生まれたのですか。 ある出版社(学研)の編集者さんに経歴を話すと、「母親としての視点 × 英語キャリアを掛け算しましょう」と背中を押していただき、企画が動き出しました。 執筆が実現した背景には、英語教員としての実績(当時まだ珍しかった海外進学のサポートなど)と、子育て経験。さらに、コロナ禍に参加したオンラインの出版塾でのご縁も大きかったです。そんなこんなで「いつどこで役立つか分からない“種まき”が、60代に入って次々と芽を出した」という感じです。スティーブ・ジョブズのいう connecting the dots を、私は「種まきが生きてきた」と表現しています。  キャリアアップの下準備――夜間大学院で“言語化”の力を磨く  ――高校教員から大学へ。どのように道を拓いたのでしょう。 こまめに英語資格を更新しつつ、夜間の大学院(立教大学・異文化コミュニケーション)で2年間学びました。指導主幹は鳥飼久美子先生。本業と子育ての合間に通い、ギリギリで単位を取った科目もありますが(笑)、理論の言語化を身につけられたのは大きかった。思春期の息子とお互い「英語力でマウント合戦」をした時期もありましたが、親が夢中で学ぶ背中を見せられたのは良かったと思います。  出版の扉を開く――名刺に“見出し”を、翌日に“130の提案”を  ――出版のチャンスは、どうつかんだのですか。 出版記念パーティーに顔を出し、名刺の裏に“見出しになりそうな言葉”(「公立高校から海外へ」「ケンブリッジ英検…」など)を書いてお渡ししました。翌日には編集者から宿題メール。 「このテーマで10項目」と言われたら、翌日に13。100なら130返す。結果、その130のTips(コツ)のうち64のTipsが本になりました。担当の古川有衣子編集長の“伸びる芽を伸ばす目”に救われました。  “レッドオーシャン”を泳ぎ切る覚悟――弱者の戦略  ――SNSでの発信は苦労も多かったのでは。 フォロワー5万人の著者が並ぶ中、私は数千人規模。不安はありましたが、飛び込んだ以上は泳ぎ切ると覚悟を決め、既存のリアルなつながりに丁寧にDMを送りました。300通送れば約1/3が反応。SNSは1/10〜1/100の反応でも、リアル発のネットワークなら道は開けると実感しました。 また、競合と思える著者にも自分から握手。同時期・類似テーマの方にDMを送り、共同スペースやコラボライブを実施。準備は7割こちらが担う、当日は相手7:自分3で話す――教員の経験を活かした即興トークで相手を引きたてました。半年後には、大物著者側からお声がけいただけるように。我が家ではライブ配信の時間を“放送”と呼び、家族の協力も得ながら継続しています。  AI時代の英語学習へ――「人間の予測不能性」を手放さない  ――AIが発達する時代、英語学習者へのアドバイスは? 一言でいえば、「AIにない“人間の予測不能性”を大切に」です。「塞翁が馬」というように、よいことが悪いことに、悪いことがよいことに転じることは常に起こり得る。失敗して、踏みとどまって、やり直す――そのプロセス自体が学び。諦めない粘りこそが、英語とキャリアをつないでくれます。  ネクストゴール――“静かな時間”に、次の芽を仕込む  ――これからの目標は? 昨年は思わぬ怪我で失速もありましたが、その“静けさ”の中で新しいコミュニティとの出会いがあり、出版コンペへの挑戦、次の企画も動き出しました。今後の取り組みとしては学童保育の時間に日本語と英語の両方の言語力を高める活動(言葉遊びなど)のお手伝いができたらと考えています。また、地域の中でボランティア的に日本を訪れる海外の方が、日本のことを良く知り、地域に溶け込みやすくするようなお手伝いができればと考えています。  園さんの“種まき”の流儀のまとめ  脇道歓迎:管理職一直線より、英語に触れ続ける導線を選ぶ。  敬遠歓迎:誰もやりたがらない仕事ほど企画から関わる。  家族巻き込み:ホームステイ受け入れで家を“国際交流拠点”に。  名刺=企画書:裏面に“見出し”を書く。翌日は提案を倍返し。  弱者の戦略:相手7:自分3でコラボを回す。準備はこちら7割。  言語化の筋トレ:大学院で理論と言葉を仕込む。  インタビューを終えて 園さんの言葉は、直線の「キャリア論」よりも、“横に広げる”導線づくりの重要性を教えてくれます。今日まいた種が、いつ芽を出すかは分からない。だからこそ、日々の仕事・生活・家族を“英語”でつなぐ工夫を欠かさない。 その姿勢こそが、AI時代の学びと働き方のヒントなのかもしれません。  英語に関する発信をいろいろされている園さんのSNSをフォローしてあなたも種まきの準備をしてみませんか?  Xアカウントhttps://x.com/sono_english   noteアカウント その(小河園子)@英語教師|note  気が付くと子どもの英語力がぐんぐん伸びている おうち英語紹介Webページ 『気がつくと子どもの英語力がぐんぐん伸びている おうち英語』 | 学研出版サイト 

行動が人生を変える‐太極拳を通して学んだ人生の切り開き方【 インタビュー 中国広州滞在 隈本さん Vol.3】

インタビューさせていただいたのは、中国広州在住の隈本祐子さん。第1章では、駐在に行くかもしれないというパートナーの一言から実際に中国駐在が決まるまでの7年間の思いや、実際に中国に渡航してからの生活立ち上げや焦る思いについてお聞きしました。 第2章では、現地の太極拳のコミュニティに参加した経験について、嬉しかったこと、難しかったこと、努力したことについてお聞きしました。 第1章と第2章はこちらから第1章 海外生活への強い思いと”中国”への戸惑い第2章 地元の太極拳グループに飛び込み参加。先生についていく決意。 最終章では、太極拳を通しての隈本さんの心の変化、太極拳への思いについてお聞きしました。 週5〜7日。太極拳中心の生活へ 太極拳は彼女にとって“生活の中心”になった。 週5〜6日、多いときは週7日。毎日のように練習するうちに、太極拳に向き合う姿勢が変わり、家族の見え方も変わっていった。 子どもたちの視点の変化 日本では仕事をしていた母親が、中国への引っ越しを機に突然「仕事をしない生活」になる。最初、子どもたちは戸惑ったと隈本さんは言う。 「ママ、これから何するの?」「ママが仕事しなかったらご飯食べられないよ!」 子どもたちにとって“いつも働く人”だった隈本さん。しかし毎日家で練習する姿を見せるうちに、子どもたちも変わったという。 「”ママは太極拳の人だよね”って。気付いたら、子供たちが自然に受け入れるようになっていた」と隈本さんは笑う。 *お子さんが太極拳を見学に来た日 旦那さんの反応 当初は現地のコミュニティに入ることを心配していた旦那さんも、「一番中国に溶け込んでるのはママだよね。」といつの間にか受け入れるようになっていたという。 「太極拳のイベントに積極的に参加し、平日に開催されたものには子どもを学校を休ませてまで連れていった。いい経験だと思ったから。」 と、当時を思い出して隈本さんは語る。「”ママすごいじゃん”という表情を見せて夫も笑っていた。」 隈本さんが優しい顔で言った。 「がむしゃらにやってきた結果なのかな。」 教える側へ―Expat Circleでの依頼 太極拳を学びはじめて少したった頃、学ぶだけではなく、「教える」立場になる機会が隈本さんに訪れた。 「海外生活者向けのサークル “Expat Circle” で、ヨガや中国茶など自分の得意なことを教える活動をしている人たちがいて、そこから太極拳講師の依頼がきたけど、最初は不安の方が大きかった」 大好きな太極拳を教えるという突然の機会。 当初の不安な気持ちを隈本さんは語る。 「太極拳って、1回で伝えられるものじゃないし、人に教えるってイメージが湧かなかった。」 隈本さんの表情からも簡単な決断ではなかったことがわかる。 「それでも断らずに挑戦してみたけど、やっぱり1回では伝えきれなかった。続けて教えたいとまでは思わなかったけど、これが”自分はもっと極めたい”と感じるきっかけになった」 学ぶ立場から教える立場になってみたことで、太極拳への思いが強まったと隈本さんは語る。 PTA経由で広がった“文化体験”としての太極拳指導 太極拳への思いが強まったタイミングで、さらに予想外の依頼が隈本さんのもとに舞い込んできた。 学校のPTAで知り合った先生が、彼女が太極拳をしていることを知り、声をかけてきたという。 「総合の授業で日中の懸け橋になる内容をやりたい。外部講師はハードルが高いけど、保護者でできる方がいるのなら…。太極拳を教えてもらえませんか?」 突然の依頼、しかも相手は日本人学校に通う子供たち、もちろん隈本さん自身の子どもたちも。 「すごく嬉しかったけど、不安も大きかった。」 当時の気持ちを隈本さんは振り返る。 「子どもに教えるイメージが持てなくて。太極拳を教えた経験、ほとんどないし。」 迷っていたタイミングで、以前一度だけ開催した太極拳講座を、「全8回の講座」としてやってみることを決めたと隈本さんは当時の様子を語る。 参加者5名、24式太極拳。日にちを固定し、本当にやる気のある人に限定して募集した。申し込み1時間以内に予約満席に。隈本さんの新たな挑戦、”太極拳講座”がスタートした。 言語化の難しさ、参加者の熱意 「最初は、自分の動きを言葉にすることがとても難しかった。」 隈本さんは静かに語る。 「“こんな感じで”といっても伝わらない。右手の動きひとつ説明するのも難しい。」 教えることの難しさを隈本さんは振り返る。 「参加してくれた5人はすごく熱心で。毎回動画を撮ったり、家で練習してきてくれた。」熱意をもって学んでくれたことが嬉しかったと、隈本さんは優しい笑顔で語る。 彼女がどれほど太極拳を大切にしてきたか知っている人たちだったからこそ、参加している方も理解と熱意が強かったようだ。 少しずつ変化があったことを隈本さんが教えてくれた。「靴が太極拳の靴に変わって、服装も少しずつ太極拳仕様になってきた。みんなが楽しむ姿が嬉しかった」 嬉しそうな表情から当時の気持ちが伝わってくる。 最後には全員で動画を撮影し、8回の講座は大成功で終わった。 「こんなふうに広がっていくことに驚きと感動があった。」 嬉しかった気持ちを隈本さんが語る。 「太極拳の仲間にも報告したら、”すごい、よくやってるね!”と温かい言葉をかけてくれて。公園の真ん中に受講生5人を連れていった時も、みんなが温かく迎えてくれた。」… Continue reading 行動が人生を変える‐太極拳を通して学んだ人生の切り開き方【 インタビュー 中国広州滞在 隈本さん Vol.3】

「通訳者を目指して♯100日英語チャレンジ」明日香さん

Hi there! Welcome to my blog. こんにちはSachikoです。 英語はあなたのキャリアにどんな影響を与えていますか? どうすれば「キャリアの武器になる英語」を身に着けられるのでしょうか。 英語を軸にキャリアを紡いできたSachikoが英語の達人のみなさんにその秘訣を伺います。 今回ご紹介するのは、英検1級、TOEIC IP 970点という高い英語力を持ち、外資系企業で働きながら“通訳者”という夢に向かって歩み続ける明日香さん。SNSで話題となった「♯100日英語チャレンジ」の発信者としても、多くの学習者に影響を与えています。 彼女の英語との出会いから、キャリア形成における葛藤、そして英語学習を習慣化するための独自の工夫まで、じっくりお話を伺いました。 英語との出会いは3歳の英会話教室から 明日香さんが英語と出会ったのは、なんと3歳の頃です。お母様が英語学科出身で「自分は英語を話せなかったからこそ、娘には話せるようになってほしい」という思いから英会話教室に通わせてくれたのだそうです。 「最初は遊び感覚で通っていました。英語で歌ったりゲームをしたりして、それがすごく楽しかったんです。」 しかし、10歳のときの海外旅行が大きな転機になります。同じホテルに滞在していた台湾の子どもと英語で話した際、その流ちょうさに衝撃を受けたと言います。 「自分のほうが英語をやってきた自信があったので、本当に打ちのめされました。“あの子みたいに話せるようになりたい”という気持ちが、あの時に初めて強く芽生えました。」 帰国後は、英検コースのある英会話スクールで集中的に学び始め、本格的な英語学習の道を歩んでいきました。 アメリカ留学で感じた“理想とのギャップ” 大学は外国語学部へ進み、1年間のアメリカ留学を経験します。しかし、その留学先で感じたのは「理想の自分と実力との差」でした。 「留学をする前から英語に強くなりたくて専門性に憧れていたのですが、実際に行ってみると全然理想に届いていませんでした。帰国後すぐに就活が始まり“これからどうするか”を本気で考え始めたんです。」 通訳者や言語学者への道にも惹かれていましたが、当時は明確にイメージできなかったといいます。 そんなとき、お父様のつながりで関西空港の通訳者と話す機会に恵まれました。「通訳者になる前に企業で働いたほうが、通訳としての深みが出るとアドバイスをいただきました。その言葉が強く心に残り、一度は一般企業で働き経験を積む選択をしました。」 そうして選んだ就職先が日系大手企業の楽天でした。 社会人3年目に訪れた転機――「英語を使わない8時間」への迷い 楽天での3年間は、楽しく充実した時間でもありました。同期と遊んだり旅行したり、新社会人としての生活をとことん満喫していたと言います。 しかし3年目に入った頃、ふと自分の未来を考え直すようになりました。「このままでいいのかなと初めて思ったんです。インスタの利用をやめて、英語のシャドーイングを中心に学習を再開しました。」 英語を学ぶほどに、自分の働く環境にある違和感がはっきりしてきました。「英語を使わない職場で1日8時間過ごしていることに、少しずつ疑問を感じ始めていて……。英語をもっと使える環境に身を置きたいという気持ちが強くなりました。」 そこから“英語を使える職場”を軸に転職活動を行い、現在のグローバル広告代理店に転職。社内は日本人と外国人が半々で、業務の8割が英語だそうです。 「英語で働くのが日常になり、ようやく理想の環境に近づいたと感じています。」 外資系で求められる英語力とは? 外資系というと、高い英語力が必要というイメージを持つ方も多いはず。 明日香さん自身、TOEICリスニング満点、英検1級という優れた実績を持っています。 「TOEICは800点くらいだと、大切なお知らせや会議内容など、重要な部分を取りこぼす可能性があるかもしれません。900点を超えていると、ぐっと働きやすくなると感じています。」 TOEICのビジネス英語の構成はメールの文章構成にも近く、実用的な力になるとのこと。 さらに、洗練された文書やクリエイティブ系の英文では、英検1級レベルの語彙を知っていると読み解きやすいそうです。 英検1級は「避けて通れない挑戦」だった 最初から英検1級を目指していたわけではありません。「英検1級なんて誰が受けるの?と思っていたので、本当に壁のような資格でした(笑)。」 しかし、通訳学校の会議通訳クラスの免除条件に英検1級があったことで挑戦を決意。 最近その条件が廃止されてしまったそうですが、それでも受験した価値は大きかったと語ります。 「結果的に自分の英語基礎力を見直す良い機会になりました。結局は実力でいきなさいということなんだと思っています。」 「100日英語チャレンジ」誕生秘話 2023年3月から行った「100日英語チャレンジ」。シャドーイングを習慣化するため、Xで毎日投稿を続けたことが始まりでした。 「同じ時間に同じことを100日続けると、確実に習慣として定着します。日々の積み重ねが、学習を生活のリズムに組み込んでくれました。」 また、英語学習において最も重視しているのは“振り返り”だと言います。 「アウトプットしたあと、必ず“何が足りなかったか”“次はどう改善するか”を考えるようにしています。このプロセスを繰り返すことで、成長が加速していくんです。」 SNSでは英語の上級者をフォローし、刺激を受けながらモチベーションを保っているそうです。 100日英語チャレンジコミュニティーに参加するのはどんな人? 現在運営している英語学習習慣化コミュニティ「Buddit」では、40代前後の参加者を中心にデザインされています。 「40代は、仕事で英語が必要になる場面が増える時期ですよね。また、キャリアアップやキャリアチェンジを考える年齢でもあります。外資系で活躍する同世代を見て、“自分も頑張らなければ”と感じる方も多いのではないかと思います。」 それぞれが目標を掲げ、100日間続け、お互いに励まし合う。大人になってからの学びを支える場として、コミュニティーの存在は大きいといいます。 これから描く未来と、英語学習を続けるコツ 最後に、英語学習を続けるためのコツと、今後のビジョンを伺いました。 「まずは無理をせず習慣化すること。そして、自分の目標との差を常に確認することが大切です。」通訳者という明確な目標に向かい、今年4月から再び通訳学校に通う予定だそうです。「外資系での実務経験を積みながら、通訳者に近づいていきたいと思っています。」… Continue reading 「通訳者を目指して♯100日英語チャレンジ」明日香さん