【ピンチはチャンス!子供3人を私という車に乗せてトンネルを走っている時、自分の中に大きな力が湧いてきた】
キャリアブレイクからの復職、その後のキャリアに関するインタビュー。
第3回のゲストは、【高橋みさ江さん】です。(以下、みさ江)
みさ江さんはこれまで数々の困難に直面していますが、ご本人が語る言葉には、前向きさと強さ、そして温かさがありました。
—– 学校を卒業後、日系大手ホテルに就職。フロント担当として従事する中で、企業のExecutiveの下で学びたい思いが強くなりました。それを実現すべく米国留学を決意。現地で秘書業務について学びます。その後、外資系企業の社長秘書として約10年経験を積み、1998年~2004年まで約7年間は子育てに専念する為にキャリアブレイクを取得します。
■ 座右の銘
みさ江:『ピンチはチャンス』ですね。私はピンチにならないと力が出ないのかもしれません。1社目の時、箱根を走る研修があったんです。入社1年目は絶対に無理と思う自分がいました。2年目、リーダーに選出された時、前年の経験から最初は諦めていたんです。ところが、実際に走り始め、500人の後輩達が次々と脱落するのを見たら放っておけなくて、気付いたら後輩を両脇に抱えて箱根の山を駆け上がっていました。ゴールまで伴走したら、また坂を駆け下りて後輩を助ける。無理だと思っていたのに、後輩のピンチに予想外の力を発揮したんです。
—– 2004年、横須賀米海軍に資材を卸す会社にImport Managerとして着任。2011年、長男の受験を機に退職。その後、欧州外資系調査会社にPremium Brand Managerとして入社。約6年の勤務の中でOperations Supervisorへと昇進します。そんな折、癌に罹患している事を知ります。
■ 7年のブランクからの復職に不安はありましたか。
みさ江:転職活動で心掛けていたのは、『自分に必要な事を思い描いて、必ずそれが来ると信じて探す』。優先事項は、➀子供の学校に近く融通が利く職場、➁最低限暮らせる年収でした。条件に合う仕事をひたすら探す、その一心でした。
■ お子さんを抱えての闘病は大変だったと思いますが、みさ江さんの前向きな性格は昔からですか。
みさ江:幼少期からという訳ではないんです。10代の頃、友人が勧めてくれた「マーフィーの法則」という本を読んで、それに従って手の届く夢を実現していく内に自信が付いたのだと思います。今も読書から自分にプラスになる事を得て進んでいます。
—– 病を乗り越え、三男の留学を機に、新しいキャリアへの挑戦を決意。2020年に東京オリンピック、パラリンピックのVolunteer Engagement Managerに就任するも、COVID-19により大会延期を経験。1年半粛々と準備を進めて大会成功の一助を担いました。その後、60歳で現職のInternational SOSに入社します。
■ 正社員の職を手放して、オリンピックに挑戦しようと思ったきっかけは何ですか。
みさ江:癌闘病後、生かされたからには日本の為に何かしたい、そうだオリンピックだと思いました。友人がオリンピック運営に入るタイミングで、馬術とボートのポジションがあるよと教えてくれたんです。馬術はカナダ短期留学での体験をきっかけに20代の頃に取り組んでいましたから、馬術担当の機会はご縁だと思いました。
■ 60歳での転職活動について教えてください。
みさ江:オリンピックが終わって2年間職が見つからず、60歳で現職に着任しました。何が再就職の鍵になったかというと、やはり英語だと思います。実は19歳の頃はTOEIC400点くらいだったんです。留学、オリンピックでの逐次通訳経験等、実践で使う内に英語力が伸びたんでしょうね。59歳の時にTOEICを受けたらリスニングが満点。それを武器に就職活動を進めました。オリンピックで900人のボランティアをマネジメントした経験も強みとなりました。
■ 次なる目標は何ですか。
みさ江:オリンピックが終わって目標が見つからない時に、薄井シンシアさんの本を読んだんです。そしてある時、シンシアさんをお見掛けして思わず声を掛けました。今は、シンシアさん主催の「キャリアは生き方の会」に参加させていただきながら、このコミュニティで誰かの役に立ちたい、それが私の次なる目標です。
★ インタビューを終えて
様々な苦難をもろともせず突き進むみさ江さんの姿から、苦しくても心に「笑顔」を持っていないと、人生の予想外の出来事を乗り越えられないと感じました。ピンチを経験したからこそチャンスを引き寄せられるのですね。みさ江さん、ありがとうございました!

