【前編】キャリアを離れて見つけた“今日を生きる力” ―家族の介護・不登校が教えてくれたこと〈Career Break Diary vol.4 新井里美さん〉

母のがんを機にアメリカから帰国。日本の家族との再スタート

「キャリアブレイクダイアリー」では、キャリアの途中で立ち止まり、新しい人生を歩みだした人たちの声をお届けします。そして今回、お話を伺ったのは、新井里美さんです。(以下、里美さん)

里美さんは日本の高校を卒業後、単身でアメリカへ進学留学の道を選びました。UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のコミュニケーション学部を卒業された後、NHKロサンゼルス支局で勤務し、リサーチや現場のコーディネート、インタビューなどを通じ、日本からの駐在記者をサポートしながらニュース制作に従事されました。その後は、現地の和食の調理学校、日本酒を取り扱う商社にて営業活動等に携わり、32歳のとき、日本で暮らすお母様のがんを機に帰国。日本では、外資系の酒類メーカー、家具メーカー、IT企業でマーケティング及び広報のキャリアを重ねました。日本に帰国して四年後に結婚し、私生活では小学生の二児の母。2022年にお父様の介護とお子様の不登校が重なり、休職を経て会社を退職されました。現在は、一緒に住むお子様に寄り添いながら、無理のないペースで非常勤の日本語教師として働いています。

ご家族のことを教えてください。

夫はフリーランスのテレビカメラマンで、週末だけ帰ってくるような生活で、子供が生まれた頃からほとんどワンオペです。子育てをしながらもキャリアを継続したくて、なんとか両立を試みてやってきたのですが、今は会社を辞めています。小学生の娘が2人います。2人とも学校に行っておらず、父は数年前に倒れてから介護が必要な状況です。仕事と育児はなんとか両立してこられましたが、加えて不登校問題と父の介護が同時に被さってきた時は、もうお手上げという感じでした。

アメリカの大学に進学されたと聞きましたが、どのような経緯だったのでしょうか。

中学の頃から英語学習が好きで、アメリカの映画や音楽などのポップカルチャーにも興味を持つようになりました。高校2年生のときには、両親に頼んでホームステイに行かせてもらいました。実際に行ってみると、思っていた以上に英語が通じて、それがすごく嬉しくて。そこでUCLAに観光に行ったのですが、「ここで学びたい」と思い、アメリカの大学進学を決めました。当時はジャーナリストに憧れていて、最初は郊外の大学でジャーナリズムを専攻してから、2年後にUCLAのコミュニケーション学部へ編入しました。

大学では何を専攻されていたのですか。

UCLAでは、コミュニケーション学部でマスメディア論全般や言論の自由の重要性とそれを保護する法令についてなどを勉強しました。私たちが日々消費するいかなるメディアにも必ずバイアスがあることを学び、視界が開けました。ロサンゼルスにたまたまNHKの支局があったので、大学生の時にインターンもしていたんですよ。

大学を卒業されてから、アメリカでどのようなキャリアを歩まれたのですか。

最初は小さな翻訳会社に勤めました。その後インターンとしてお世話になったNHKに「仕事があるよ」と声をかけていただいたんです。それでNHKロサンゼルス支局で、事務作業から始めてリサーチ、取材、駐在支局長のアシスタント業務などを担当しました。ちょうど大統領選挙や同時多発テロがあり、アメリカ社会が大きく動いていた時代でした。ただ、広範囲のニュース取材を続けるうちに、自分の専門性ってなんだろうと、少しずつ疑問に感じるようになりました。そこで、ロサンゼルスで人脈を広げるうちに、ディナーパーティなどで体験したお酒を交えたコミュニケーションやホスピタリティの分野に興味を持つようになり、日本料理の調理学校に転職し、日本酒の製造工程や文化についての講師を務めたり、レストラン向けに日本酒のテイスティングやメニューのコンサルティングなどを担当したりしました。日本酒の香りをワインのテイスティングノートの語彙を駆使して言語化するのが楽しく夢中になっていました。その後、日本酒を扱う商社から声をかけていただき、西海岸担当の営業としても働きました。

まさにアメリカが大きく動いていた時期に、濃密な経験をされていたのですね。その後日本に帰国されたのは、どのような理由からだったのでしょうか?

母が末期がんになったことがきっかけです。妹も当時ロサンゼルスにいて、「どちらかが帰ろう」と話し合いました。ちょうどその頃、私の就労ビザが抽選で落ちてしまったことも重なり、帰国を決めました。振り返ると、それが家族のために自分の選択を諦めた最初の出来事だったのかもしれません。母のことはショックで、上司にも相談して仕事量を減らしてらうなどしていましたが、当時の仕事には身が入らなくなっていきました。

お母様のことやビザのことで気持ちが大きく動く日々だったことと思います。日本に帰ることへの抵抗はありませんでしたか。

私はアメリカに14年ほど住んでいて、気持ちの上ではほとんどアメリカ人のようになっていました。でも、ビザが取れなかったことで、「結局、自分は外国人だったんだ、何を勘違いしていたのだろう」と、失望しました。ただ、日本に戻ったことで、母と過ごせる時間を持てたのはよかったと思います。母とは長女が1歳になる頃まで一緒に思い出をつくることができました。

日本でお母様と過ごせたのは大きかったですね。日本に戻ってからの生活とお仕事について教えてください。

当時は32歳で、「転職は難しいかもしれない」と心配していたのですが、いろんなエージェントに連絡して、手当たり次第応募してみたんです。ありがたいことに一社から内定をいただいて、日本で初めて就職したのが、フランスの酒類メーカー、ペルノ・リカール・ジャパンでした。マーケティング部に入社させていただき、そこから日本でのキャリアが始まりました。

日本の文化に慣れるのは大変でしたか?

大変でしたね。母のこともあったし、ロサンゼルスでは車生活だったのですが、実家から電車で通っていたので、通勤が辛くて辛くて。ただ、新しい仲間のおかげで職場の文化には順応できて同僚と飲みに行ったりして充実していて、そこはすごくありがたかったですね。でも、お酒の会社なので、営業の方と深夜までお客様を訪ねて情報収集をしたりする日も多々ありました。華やかな世界で楽しかったですが、大変な時もありました。妊娠する直前まで、そんな生活が続いていましたね。

ご結婚はいつされたのですか。

日本に帰国して四年後、ロサンゼルスのNHKでいつもお世話になっていたカメラマンと結婚しました。仕事を一緒にしていた頃は、周りの信頼が厚い業界の大先輩という感じで、まさかこんなふうになるとは想像もしなかったのですが、夫は私より一足先に帰国していて、同じ帰国組として共通の思い出を語りあったり、帰国後の悩みを相談できたりする存在になったのです。ペルノ・リカールに勤めている間に結婚し、そこで2回育休を取得させていただきました。仕事柄出張ばかりの夫ですが、家にいるときは家事と育児を私より完璧にこなしてくれる、頼れる存在です。

出産の前後で、仕事復帰についてはどのように考えていましたか。

育休中に仕事社会に置いていかれるような孤独感もあり、「絶対に戻る」と思っていました。働くことがすごく好きだったし、日本に戻ってやっと自分の力で適応できたという自負もあって、積み上げてきたものがすごく大きかったし、そのまま積み上げ続けていくことが当然だと感じていたんです。

復職後イケアに転職されたと伺っています。

ちょうど上の子が小学校に入るタイミングで、ペルノ・リカールにも長く勤めていましたし、「もっとキャリアアップできるのでは」という思いが出てきました。ペルノ・リカールではマーケティングを経験した後に、コーポレート・コミュニケーションという社内と社外の両方の広報を担当していて、企業ブランディングと広報の仕事自体に興味を持ち始めていた頃でもありました。そこで転職活動にチャレンジし、ご縁があってイケア・ジャパンに広報担当として入社した、という流れです。ちょうど都心店舗のオープンが続いた歴史的なタイミングにお仕事をさせていただき、振り返ると自分のキャリア史上一番のハイライトだったと思います。

その後、セールスフォースへ移られたのは、どのような経緯だったのでしょうか。

セールスフォースは、実はペルノ・リカール時代にブランド担当として一緒に働いていた同僚が先に転職していて、その方から声をかけてもらったのがきっかけでした。最初は日本と韓国のエンプロイー・エンゲージメント マネージャー(社内広報)として入社し、企業カルチャーを醸成したり、社員のロイヤルティを高めていくための社内コミュニケーションの仕事をしました。ただ、1年半ほど経った頃に、やはりメディア対応などの社外広報への興味が再燃し、社内公募に応募したところ合格して、異動が決まりました。ところが、ちょうどそのタイミングでいろいろなことが重なりました。異動が決まった直後、2022年9月に父が倒れてしまい、さらに翌月、長女が学校へ行けなくなりました。長女はそれから3年以上経った今でも不登校です。私にとっては、大きな転機の秋でした。

前編を振り返って

自分の力で道を切り開いて、アメリカでキャリアを築いてきた里美さん。

その一方で、日本にいる家族の存在は、ずっと心の奥にあり続けていました。

お母様のがんをきっかけに、長く暮らしたアメリカを離れて帰国を決意した選択には、キャリア以上に「家族を大切にしたい」という里美さんの揺るぎない思いが表れていると感じました。

帰国後は新しい職場での挑戦、結婚、出産、子育てと、
環境が大きく変わる中でも、懸命に働き続けてこられました。しかし、そんな日々の中で訪れた思いがけない家族の変化が、里美さんの生活や価値観を大きく変えることになります。

後編では、その出来事を経て会社を退職した里美さんが、そこからどのような思いにたどり着いたのか、お話を伺っていきます。

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By Yuna Suemune

本サイトの運営者。鉄道業界での建築設計、外資系メーカーでの営業・マーケティング業務を経て、家庭と仕事とのバランスを考慮し現在は正社員としての働き方をお休み中。得意なレイアウトデザインと一級建築士の資格を活かして、個人事業主として教材や資料制作などの仕事を行う。2025年1月に里帰り出産も兼ねて地元九州に移住し、3月に第一子を出産。福岡の自宅で仕事をしながら子育てに奮闘中。

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