キャリアブレイクダイアリーでは、キャリアの途中で立ち止まり、新しい人生を歩み出した人たちの声をお届けします。 前編では、ご結婚を機に信販会社を退職してから、息子さんの幼稚園・小学校受験に伴走するまで、大島加奈さんの道のりをお話しいただきました。後編では、休校が明けてからの歩みを伺います。 【前編】家族にとってベストな選択を積み重ねた12年。働けなかった時間に、得たもの〈Career Break Diary vol.5 大島加奈さん〉 コロナ禍は、どう過ごされましたか。 小学1年生の2月から休校になりました。全国の学校が休校になると伝えたニュース速報は、今でもよく覚えています。息子の小学校は慎重に判断していて、休校は6月まで続きました。 再開後も1日2時間の分散登校で、気がついたら1学期が終わっていた、という状況でした。その後、車での通学が許可されたため、毎日送り迎えをしていました。小学4、5年生まで、2、3年間ですね。自分でも、超過保護だと思います(笑)。でも、自分がしたいと思っていたので、ストレスではなかったです。 車が禁止になったタイミングで、働こうと思えば戻れたと思います。ただ、その頃は息子の成績が思わしくなく、ここで支えなければと感じて、再び仕事復帰を見送りました。 加奈さんが「働きたい」「働こう」と思われる理由は何ですか。 そもそもの性格として、ずっと家にいるタイプではありません。時間ができると何かしたくなるので、息子ともほぼ毎日どこかへ出かけていました。ですから、働きたかったというよりは、ずっと家にいる生活はしたくなかった、という方が近いと思います。 実際、小学5年生のときには友人の会社を3ヶ月ほど手伝いました。私のスケジュールに合わせてくれると言ってくださったのでお受けしました。ただ、その年に注文住宅の家づくりと引っ越しが重なり、家のことをすべて私が担っていたため、期間限定という形になりました。 その後12年ぶりに会社員として復職されていますが、どんなきっかけだったのでしょうか。 新卒で働いていた会社が、アルムナイネットワークという退職者向けのネットワークを導入し、同窓会のような懐かしい気持ちで登録したことがきっかけとなりました。 その集まりで、当時の人事部長から「手伝ってほしい」と声をかけていただきました。その方とは、私が現役の頃に全国を出張していた時期に福岡で出会っていて、お互いに覚えていました。退職者のネットワークを運営する上では、社内にも退職者にも知り合いが多い方がやりやすい。だからこそ、私に声がかかったのだと思います。出張が多かったぶん、400名を超える社員と知り合いでした。 声をかけていただくまでは、働くことは全く考えていませんでした。 「息子優先」を条件に復職されたと伺いました。具体的にはどんな働き方ですか。 一度悩んで、夫に相談して、自由が利くのであれば良いのではないかと考えました。「息子優先で働けるのであれば、ぜひお願いします」と伝え、復職することにいたしました。 息子の学校の用事を最優先にすること。息子が帰ってくるまでには家に帰ること。そして、長期休暇は休ませていただくこと。この3つのことはお伝えしました。 雇用形態はパートタイマーで、扶養の範囲内でした。こうした働き方をしている方は、社内にはいなかったと思います。 約2年勤められて、その仕事を離れることを決めたのはなぜですか。 人脈を生かした仕事内容にはやりがいもあり、人事全般の業務はとても楽しかったです。ただ、業務内容と待遇のバランスに悩むようになりました。給料について相談もしましたが、改善は難しい状況でした。 そんな中、今年3月にキャリアブレイクのイベントで薄井シンシアさんにお会いして、「実は私、低賃金なんです」とお話ししたら、「あんた今すぐやめなさい」と言われて(笑)。それがきっかけで、6月から本当に初めてちゃんとした就職活動を始めました。東京都の女性向けキャリアチェンジ・キャリアアップ支援事業にも応募し、支援を受け始めるところでした。そして、シンシアさんのご縁のある会社から内定をいただきました。背中を押していただき、本当に感謝しています。 ただ、実際に働いてみると、働き方の相性が合わない部分がいくつかあり、短期間で辞めることになりました。ご紹介いただいたのに申し訳ないという気持ちで、すごく悩みました。描いていた未来が全部なくなってしまう感覚もありましたが、今は気持ちを持ち直して、「息子と一緒にいられる時間が手に入った」と思っています。 12年を振り返って、いま思うことを教えてください。 自分ではどうにもできないことが本当に多かったのですが、その中でも自分のしたいことは、できる限り実現してこられたのかなと思っています。 仕事であれば、自分のことなので、「合わない」と感じたら辞めるという選択ができます。でも、息子のことになると「嫌だから辞める」ができないですよね。「この人は合わない」と思う相手であっても、一緒にいて何かを成し遂げなければいけない。そのときにどう向き合うか。人として一番成長できたのは、そこだったと思います。 日本の会社は、似たタイプの人が集まりやすいと思っています。その中では9割の側にいても、外に出た瞬間、自分がマイノリティだったと気づくことがある。会社の生活だけでは気づけなかったことでした。 学校の先生、塾の先生、習い事の先生、同級生のお友達。老若男女さまざまな方と、それぞれに合った関わり方をする。息子や夫のためにどうしたらうまくいくか、みんなが良くなるにはどうしたらいいか。そうやって考え続けてきた12年でした。 これから、どんな働き方をしたいと考えていますか。 東京都の支援事業のeラーニングで学んだり、資格の勉強をしたりしながら、就職活動を続けていくつもりです。仕事の内容としては、人事系のお手伝いをしてきたので、その領域に関心がありますし、英語を使ったお仕事や、経験してきたお受験・注文住宅についても何か仕事に繋げられると嬉しいです。また、自分の強みを考えると、自分が表に立つよりも、一緒に案を出しながら誰かを支える役割の方が向いているのではないかと思い、そうした仕事を模索しています。 息子のためにしっかり稼ぎたいという思いは、どんどん強くなっています。進学の際に、選択肢で迷わなくて済むようにしてあげたい。実は息子はいま、寮生活をしていて、離れて暮らしております。いざ離れてみると、一緒にいたいという気持ちの方が強くて。毎日出社してがむしゃらに働くと、休みのときにも一緒にいられなくなってしまう。あと数年は、一緒にいられる時間を大事にしたいと思っています。 インタビューを終えて 仕事をしている方が、いろいろな成長につながる。私はどこかでそう思い込んでいました。 でも加奈さんは、会社を出たからこそ気づけたことがあると話します。合わないと思っても辞めるという選択肢のない場所で、さまざまなタイプの方と関わり、一緒に何かを成し遂げていく。そこで人として一番成長できた、と。 子育てをされている間、「働けなかった」と加奈さんはおっしゃいますが、毎日の送り迎えと、復職の条件がそうであったように、その判断の中心にはいつも息子さんがいました。離れて暮らすようになって、かえって一緒にいたい気持ちが強くなったという言葉にも、それが表れていたように思います。 数年先を見据えて、加奈さんは次のステージへ向かっています。「働けなかった」と言うその時間に積み上げてきたものが、これからの加奈さんを支えていくのだと思います。 加奈さん、貴重なお話をありがとうございました。
Category: キャリアブレイク
【前編】家族にとってベストな選択を積み重ねた12年。働けなかった時間に、得たもの〈Career Break Diary vol.5 大島加奈さん〉
キャリアブレイクダイアリーでは、キャリアの途中で立ち止まり、新しい人生を歩み出した人たちの声をお届けします。 今回お話を伺ったのは、大島加奈さんです。 加奈さんは岩手県出身、東京都在住。大学卒業後、信販会社に新卒入社し、営業として約6年勤務。全国転勤のある夫との結婚を機に退職し、夫の勤務地である静岡へ。2013年に男の子を出産、夫の転勤に伴い再び東京へ戻ります。以降、約12年間のキャリアブレイク。息子さんの幼稚園受験・小学校受験に伴走し、2024年、新卒入社した企業へパートタイマーとして復職。現在は、次のキャリアを描き直している最中です。 約12年お仕事から離れられたのは、ご自身で選んだ選択だったのでしょうか。 実は少し特殊で、「キャリアブレイクをしよう」と最初から決めていたわけではありません。その時々で、自分にとってベストだと思える選択を積み重ねていった結果、気づけば仕事から離れる期間が長くなっていました。どちらかというと、状況に合わせて自然と流れに乗っていった、という表現が近いかもしれません。 約6年勤めた会社を辞めた理由を教えていただけますか。 私も夫も全国転勤のある仕事をしていました。夫が静岡に赴任していた時期に結婚が決まったのですが、私自身もいつどこへ転勤になるかわからない状況でした。このまま働き続ければ、結婚しても別々に暮らすことになる——当時の私にはその選択肢は考えられませんでした。「それなら辞めよう」とすぱっと決めたのを覚えています。迷いはほとんどありませんでした。 出産後、働くという選択肢は考えられましたか。 結婚して静岡に移り住み、ほどなくして息子を授かりました。生後半年の頃に夫の辞令で東京へ戻ることになり、私も仕事復帰を考えて保育園を調べました。しかし、当時は専業主婦で、さらに夫の実家の近くに住んでいたこともあり、保育園の入園基準を満たせず、預けることができませんでした。預け先が見つからなかったため、そのタイミングでの仕事復帰は選びませんでした。 仕事復帰をしないと選択したとき、どのようなお気持ちでしたか。 シンシアさんのように「この子と一緒にいる」と前向きに決めたというより、「預けられないし、一緒にいなきゃ」という気持ちでした。ただ、生まれてみたら想像より「かわいいな」と思い、一緒にいたいと思うようになりました。 それに、東京に戻ったとはいえ、次にどこへ転勤になるかわからない状況でした。もし住む場所が変わらないとわかっていたら、働くという選択をしていたかもしれません。 ご自身の中に「母親のモデル」はありましたか。 私の母はずっと働いている人でした。当時は産休や育休の制度が今ほど整っていなかったので、ぎりぎりまで働き、産んだらすぐに預けて復職していました。保育園の先生のほうが私のことをよく知っている——そんな環境で育ちました。一方で、夫の母は専業主婦でした。 その二つのモデルが自分の中にある状態でした。私はきっと実の母のように働くのだろうと思っていましたが、心境が変化し、義母のような生き方もいいなと思うようになっていきました。ただ、自分自身は「母と密に過ごす」という経験をしてこなかったので、親子の距離感やあり方がよくわからず、常に迷いがありました。これでいいのかな、と。 お子さんは幼稚園から受験されていますが、どのような思いがあったのですか。 順番としては、小学校受験を決めたのが先でした。理由はシンプルで、息子には夫のような人に育ってほしいと思い、夫の母校を目指すことにしました。 その小学校に進むために親和性のあるところを、と選んだのが家の近くの幼稚園でした。そこがたまたま、いわゆる「お受験幼稚園」でした。 正直に言うと、ずっと息子と二人でいるのは疲れるだろうな、と想像していました。受験という通過点ができたことで、習い事などで外出する機会が増え、社会とのつながりを持ち続けることができました。また、息子もいろいろな人と関わることで成長につながったと思います。受験に向けて家族で協力し合えたことも、絆を深めるきっかけになりました。結果として、受験して良かったと感じています。 当時を振り返って、いま思うことはありますか。 1歳前くらいから、いろいろな教室に通わせ始めました。当時の東京はそうした空気に満ちていて、何かさせなければいけないのではないかという焦りに流されてしまったところがあります。受験について私自身が十分に理解していなかったこともあり、教室で言われたことをそのまま実践していました。今振り返ると、あんなにしなくてもよかったのだろうなと思うことを、たくさんしてしまいました。後悔もあります。 ただ、その時代の、そのタイミングで、私たちなりのベストを選んでいたとも感じています。幼稚園の頃には、親子で2年続けてハワイに短期留学もしました。 受験に向かう日々の中で、悩みを相談できる相手はいましたか。 子どもの受験について相談できる友人はいませんでした。とにかく一人でがんばっていた記憶があります。 その一方で、産んだ病院の集まりが月に一度あり、参加できる人が集まって話をする場がありました。また、習い事で知り合った方々とも交流が生まれ、そうした場が自然と情報交換の場になっていましたね。 お子さんが小学校に上がってからは、働くことを考えられましたか。 考えていました。1年生のゴールデンウィークまでは付き添うと決めていて、慣れてきたら仕事を探し始め、働こうかな、と。 ただ、1年生の5月に登下校中のトラブルがあり、「お母様、しばらく付き添いをお願いします」と学校から言われてしまいました。それがとてもショックで、一人で学校に行ってくれれば私は仕事を始められたかもしれないのに、と感じ、息子を責めてしまったこともあります。 それでも、来年になれば少しは動けるかもしれない——そう思っていた1年生の2月に、学校が休校になりました。コロナが始まったのです。 前編を振り返って 「働こう」「仕事を始められたかも」。加奈さんはそう振り返ります。働く道が見えかけるたび、家族の事情が重なっていきました。 それでも、ご主人の住む先へ移り、息子さんの未来のために受験に伴走する。二人の母のモデルの間で、家族の状況に合わせてご自身の立場を選ばれてきました。その柔軟さは、これから私が家族と向き合う場面でもきっと必要になるものだと思いました。 後編では、先の見えない休校が始まってから、12年ぶりの復職、そして今に至るまでを伺います。
英語×教養×知的好奇心を育むブッククラブ──ELC代表・五味奈津子さん
The blog introduces Sachiko’s journey in English learning and highlights her experiences at the English Library Café led by Natsuko Gomi. It emphasizes the benefits of engaging with diverse perspectives through reading and discussion, fostering intellectual curiosity. Natsuko’s story showcases the transformative power of language in personal and professional growth.
音楽とご縁が導いた国境を越えるキャリア:AOMビザコンサルティング代表足利弥生さん
Hi there! Welcome to my blog. こんにちは、Sachikoです。 英語を「話せるスキル」で終わらせず、どうキャリアにつなげ、どう人生に活かしていくのか。このブログでは、英語を軸に自分らしい道を切り拓いてきた方々の、等身大の経験と選択をお届けしています。 今回ご紹介するのは、AOMビザコンサルティング代表の足利弥生(弥生さん)さんです。 幼少期をアメリカで過ごし、音楽大学でピアノを学んだ後、IT企業、オーストラリア大使館、外資系金融機関を経て起業という、ユニークなキャリアを歩んでこられました。現在はオーストラリアを中心としたビザコンサルティングを手がけ、多くの方の海外挑戦をサポートされています。 一見すると異なる分野を渡り歩いてきたように見える弥生さんですが、そのキャリアの背景には「海外への憧れ」と「人とのご縁」そして「音楽」という一貫したテーマがありました。今回は、これまでの歩みや海外移住に対する思い、そしてこれからの時代を生きる若い世代へのメッセージを伺いました。 海外への憧れは幼い頃から 弥生さんは4歳頃までアメリカで過ごした帰国子女です。記憶自体はあまり残っていないそうですが、英語教育に熱心だったお父様の影響は大きかったといいます。 また、お母様が音楽大学出身だったことから、自身も自然と音楽の道へ。幼い頃からピアノに親しんできました。 ピアノと英語を両立しながら「いつか海外へ行きたい」という思いを育んでいったそうです。 そして26歳のとき、その夢を実現するためにニュージーランドへワーキングホリデーに出発します。 当初は、就労が可能な国という条件でオーストラリアを考えていたのですが、ビザの発給上限に達してしまって申請できず、急遽ニュージーランドに行くことになったそうです。 当時は今ほどインターネットが普及しておらず、海外で働く方法としてワーキングホリデーが最も現実的な選択肢でした。 帰国後のキャリアも見据えて旅行主任者資格を取得し、現地ではホスピタリティ業界で活躍。ピアノ演奏ができる観光ガイドとして人気を集めたこともあったそうです。 音楽から移民政策の世界へ ニュージーランドから帰国後、弥生さんのキャリアは思いがけない方向へ進みます。 オーストラリア大使館のイミグレーション部門で働くことになったのです。 当時は電子渡航認証(ETA)の導入期で、大使館は多忙を極めていました。そこに帰国のタイミングが重なったそうです。 ビザ審査官として多様な国籍や背景を持つ人々と向き合う中で、日本がいかに平和で恵まれた国であるかを実感すると同時に、オーストラリアの移民政策と日本の人口問題について深く考えるようになったそうです。 その関心は学び直しにもつながります。大使館の図書館で出会った移民政策の専門書がきっかけとなり、働きながら慶應義塾大学法学部で学位を取得されました。 グローバル企業を経て起業へ その後、弥生さんは大使館からリーマンブラザーズ証券会社へ転職します。 グローバル企業の人事部門で経験を積む中で、ビザに関する専門知識が大いに活かされました。さらにEU系投資銀行でもHR(人事)業務に携わり、国際的なビジネス環境を学び続けます。 興味深かったのは、新たな転職や挑戦の多くが「人とのつながり」から生まれていたことです。 思いがけない破綻により、後に起業を決意したのも、大使館時代の元同僚からの提案がきっかけだったといいます。 「自分一人では思いつかなかったと思います」 そう語る弥生さんの言葉からは、人との出会いを大切にする姿勢が伝わってきました。 海外移住から見える日本の未来 15年以上ビザコンサルティングに携わる中で、弥生さんは日本の将来に強い問題意識を持つようになりました。特に、高度なスキルを持つ人材が海外へ活躍の場を求める傾向や、リモートワークの普及によって富裕層や専門職、起業家などの海外移住のハードルが下がっていることを懸念しています。 一方で、若い世代の海外志向は以前ほど高くないと感じており、「海外を知らなければ成長の機会を逃し、将来のイノベーションも生まれにくくなる」と指摘します。 また、人口減少が進む日本では、長期的な視点に立った人口政策が不可欠だと考えています。既存のビザ制度を戦略的に活用し、人材獲得や地域活性化につなげる仕組みづくりが必要だと訴えます。 著書『海外移住は人生や社会にイノベーションを起こす』では、日本人の海外移住の現状、日本の人口政策、そしてオーストラリアの可能性という3つのテーマを発信しています。 海外経験は個人のキャリアの幅を広げるだけでなく、新たな視点や価値観をもたらし、社会やビジネスのイノベーションにつながる――。そんな弥生さんの強い信念が伝わってきました。 女性だからこそ広がる可能性 女性のキャリアについて、弥生さんは「女性のほうが好奇心旺盛な方が多いように感じます」と語ります。海外経験は、自身のキャリアや生き方を前向きに見つめ直すきっかけになることも少なくありません。 日本では出産や育児との両立など、女性が直面する課題も依然としてあります。だからこそ、「もっと世界に出て、多様な経験を積んでほしい」と弥生さんはエールを送ります。大切なのは、自ら行動し、人とのつながりを広げること。そして目標と時間軸を持ちながら、一歩ずつ前に進むことだといいます。 また、女性同士だけのコミュニティにとどまらず、幅広い世代や多国籍の人々との交流を通じて、本当に関心のあることを見つけることで、自分らしいキャリアの方向性が見えてくると話してくれました。 最後に 弥生さんのお話を伺っていて印象的だったのは、「ご縁」という言葉が何度も出てきたことでした。 音楽、海外経験、学び直し、転職、そして起業。一つひとつの出会いを大切にしながら、自らも準備と努力を重ねてきたからこそ、現在のキャリアにつながっているのだと思います。 「マニュアルはない。自ら行動し、ネットワークを築くことが大切。」 その言葉は、海外に挑戦したい人だけでなく、これから新しい一歩を踏み出そうとしている私たち全員へのエールにも聞こえました。 弥生さん、貴重なお話をありがとうございました。 弥生さんの著書についてのご案内は下記のリンクをチェックしてください。 「海外移住は人生や社会にイノベーションを起こす」~日本を超えて描く自由な未来~ 書籍 出版のご案内 | オーストラリア・ニュージーランド・アメリカ・ドバイ・イタリアビザ AOM… Continue reading 音楽とご縁が導いた国境を越えるキャリア:AOMビザコンサルティング代表足利弥生さん
薄井シンシアさんの著書『専業主婦が就職するまでにやっておくべき8つのこと』がフリーランスの私にヒントをくれた
私は1歳の娘を育てながら、大分で暮らしています。 リモートでできる仕事を中心に、企業や個人の方から業務委託をいただいています。 数年前まで東京で会社員をしていたのですが、結婚・妊娠・地方移住をきっかけに、フリーランスという働き方を選びました。 今日は、そんな私のこれからにヒントをくれた一冊の本の話を書きたいと思います。 《目次》 自分の選択が「中途半端」に感じていた 私の周りの友人たちを見渡すと、みんなそれぞれの場所で自分の道を歩んでいます。 東京や福岡で会社員として働いている方も多いし、子育てに集中したく専業主婦を選んだ方もいる。 そんな中で、地方でフリーランスをしている私は、自分の立ち位置や肩書がふわっとしていると感じることがよくあります。 そんなとき、 「そうだ、シンシアさんの本を読もう」 と家にあったシンシアさんの本を改めて読み返すことにしました。 もう一度ちゃんと開いて、自分が今感じていることを整理してみたい。 この本の中では、専業主婦が再就職するにあたって何をしておくべきか、ご自身の経験から8つのポイントが書かれています。 私は専業主婦ではないけれど、今の自分の働き方や暮らしに重ねながら読むと、たくさんのヒントがありました。 特に心に留めた、3つのこと シンシアさんが書かれている8つのことはどれも大事な視点なのですが、その中でも私が特に心に留めたのは、次の3つでした。 ① 「専業主婦」を長い人生のなかの「キャリア」と位置づける シンシアさんは、専業主婦としての期間を「キャリアの中断」ではなく、長い人生のなかのひとつの「キャリア」として位置づけていました。 これを読んで、今の自分の働き方にもそのまま重なると思いました。 私は、「完全にキャリアを中断している」とは思っていませんが、「会社員を辞めている」という点では、遅れをとっている気がしていました。 でも私はこの働き方を、自分で選びました。 この期間も、私の人生のストーリーのなかで大事な時間になるはず。 そう信じて、あとから振り返ったときに「あの時こうしておけばよかった」と後悔しないように、未来のために小さな積み重ねをしておきたい。 シンシアさんの言葉を読んで、その気持ちを改めて確かめることができました。 ② PTA、地域ボランティアに参加する シンシアさんは、専業主婦の期間に地域のPTAやボランティアに積極的に関わることを勧めています。 これも、地方に移住してきた私には、すごく腑に落ちる話でした。 つい先日、近所にある奈多八幡宮の松林の清掃活動に参加してきました。 アメリカのインターナショナルスクールの生徒さんたちが来てくれて、地元の方と一緒に松林の枯葉を掃除する取り組みです。 こういう場で出会う方々とのつながりは、会社の名前でつながっているわけではないんですよね。人と人が繋がる場所です。 そこにある関係には、会社員時代に感じたものとはまた違う、心強さと豊かさがあると感じます。 また、「人とのつながりが人生を変える」ことを最近特に実感しているので、今後も大切にしていきたいことです。 ③ 目標を達成することで、自分で自分を評価し、自信をつける 本のなかでは、自分でゴールを決めて達成する大切さが書かれています。 私の場合は、今の仕事においても、家庭においても、これを改めて心がけていきたい。 私の人生には、これからもいくつかのフェーズがあります。 仕事をしながら1歳の娘と過ごす今のフェーズ、娘が小学校に通うフェーズ、娘が自立しだんだんと手離れしていくフェーズ。 それぞれの場面で、無理のない範囲で小さく積み上げていく。ときには苦手なことに挑戦しながら。 その積み重ねが、5年後、10年後に振り返ったときに後悔のないものでありたい。そしてその先で、私がしたいこと(自分の会社のことかもしれないし、会社員に戻りたいというものかもしれない)にちゃんとつながるように、今の歩みを大事にしたいと思っています。 私に足りなかったのは「規則正しい生活」 シンシアさんはこの本のなかで、「時間に忠実に、規則正しく生活する」ことの大切さも繰り返し触れています。 正直なところ、今の私には本当に耳が痛いところです。 1歳の娘との毎日は、娘次第。 何時に起きるか、いつぐずるか、いつ寝てくれるか… 思い描いたスケジュール通りに動けないのは、娘が全部悪いわけではなく、自分が自分に甘いところもあるのだとも思っています。 「シンシアさんが書かれているような規則正しい生活は全然できていない」と改めて反省しました。 でも本を読んでいると気づくのです。 「シンシアさんは娘さんが小学校に通っているときのことを言っているかも」 完璧な規則正しさは、娘がもっと大きくなったらやればいい。 今は、できる範囲で仕事を受ける、地域や家族のために動く。それで十分かも。 これは、本を読んで私が勝手に解釈したことです。… Continue reading 薄井シンシアさんの著書『専業主婦が就職するまでにやっておくべき8つのこと』がフリーランスの私にヒントをくれた
何歳でも英語で人生を変えられる:英語コーチきなこさん
Hi there! Welcome to my blog. こんにちは、Sachikoです。 英語を「話せるスキル」で終わらせず、いかにしてキャリアへとつなげていくのか。このブログでは、英語を軸にキャリアを切り拓いてきたSachikoが、第一線で活躍する“英語の達人”たちに、そのリアルな秘訣を伺っています。 今回のゲストは、Xフォロワー5.9万人を誇る英語コーチ、「きなこ」さんこと伊藤さなえさん。 きなこさんは、名古屋大学の後輩で私と同じく公務員経験をお持ちです。様々な経験を経て、現在は起業を果たされ、学研より『ひとめでわかる!英語ビジュアルマップ』を上梓されるなど、英語学習の分野で注目を集める存在です。 しかし、現在に至るまでの道のりは、決して華やかな成功物語ではありませんでした。思うように進まない現実の中で、数々の選択と葛藤を重ねながら、「自分は何者で、何をやりたいのか」を問い続けてきました。 迷いや挫折を経験したからこそ見えてきた、“今の自分”へとたどり着くまでの道のりとは。 素直さと人とのご縁を何より大切にしながら、一歩一歩前へと進んできたきなこさん。その軌跡と胸の内を、じっくりと伺いました。 学生時代から芽生えていた、言語学への興味 ――英語学習はいつ頃から始められたのでしょうか? 近所に英会話スクールがあって、子どもの頃から通っていました。当時は英語の名前をつけられるのが少し恥ずかしくて、「Susie」と呼ばれることに違和感を覚えていましたね。「私はSusieじゃないのに」って(笑)。それでも、自然と英語に触れられる環境が身近にあったのは大きかったと思います。 ――名古屋大学では言語学を専攻されていますが、学生の頃から英語は得意だったのですか? 実は、英語でのコミュニケーション自体はあまり得意ではありませんでした。ただ、中学・高校の頃に文法や構文を読み解くことが本当に面白くて。難しい文章を一つひとつ分析して理解していくプロセスに、気づけば夢中になっていました。その延長線上に、言語学という専攻があったんです。 その後、日本大学の通信制課程で教員免許を取得し、日本語教師の資格も取りました。日本語教師養成の過程で初めて第二言語習得理論を体系的に学んだのですが、これは今の英語指導にダイレクトに生きています。言語学で学んだ知識も、たとえば時制(出来事の時間的な位置)とアスペクト(出来事の状態・進み方)の違いなど、学習者がつまずきやすいポイントを見極めるうえで大きな助けになっていますね。 公務員という「安定」から、一歩踏み出す決断 ――大学卒業後は国家公務員になられたそうですね。 はい。大学に通いながら、予備校で公務員試験の勉強をしていました。当時はまだ国立大学職員が国家公務員だったんです。今は独立行政法人に変わっていますけど。名古屋大学に就職して、いわゆる安定した道を歩み始めました。 ――そこから、その安定を手放す決断をされたのですよね。 そうなんです。最初の配属先で、英語を使う機会が多かったのですが、それがすごく楽しくて。コミュニケーションの面白さに初めて気づきました。そこから英会話教室にも通い始めて、「英語を突き詰めて仕事にできたら楽しそうだな」と思うようになったんです。 ただ、公務員だと3〜4年ごとに異動があるため、せっかく磨いた英語力を、次の配属先で生かせるかどうかは分からない。「もっと英語を深く学びたい」「これを仕事にしたい」という思いが、だんだん強くなり留学したいという気持ちにつながりました。 ――カナダ留学を決意したとき、怖さはありませんでしたか? 正直、ものすごく怖かったです。名古屋大学を出て国家公務員になって、周囲からはうらやましがられるようなレールに乗っている状態から脱線するのは勇気がいりました。また、実家が裕福ではなかったので、現実的な不安も大きかったですね。ただ、今だから言えるのは、「決断してよかった」ということです。もちろん、その後は苦労の連続で、途中で自分の決断を呪ったことも何度もありました(笑)。それでも、その経験があったからこそ、今の自分がある。そのすべてが、いまの原動力になっているんじゃないかなと思います。 カナダ留学で得たもの ――カナダ留学で得たものは何ですか? 一番大きかったのは、価値観が大きく変わったことですね。私はこれまで、何かしらの「型」や組織に属して生きるのが得意なタイプだったんです。でもカナダでは、どこにも所属していなくても、きちんと自分を評価してくれて、自然に仲良くなれる人たちがいると知りました。 学歴や職歴、年齢といった肩書きで判断されることがほとんどなくて、「その人自身」を見てくれる。だからこそ、何歳になってもチャレンジしていいんだ、という感覚を持てるようになりました。 帰国直後に待っていた、試練の時間 ――帰国後の就職活動は順調でしたか? それが、帰国したのがちょうどリーマン・ショックの時期だったんです。本当に最悪のタイミングでしたね。TOEICは985点まで伸びていましたし、英語も話せるようになっていたので、「就職は何とかなるだろう」と思っていたのですが、そもそも求人がほとんどなくて。 公務員の経歴は民間ではあまり評価されないと分かっていたので、派遣から始めようと考えていました。でも、それもなかなかうまくいかず、ようやく決まった外資系企業のお仕事もしばらくして事業縮小でなくなってしまいました。さらにその頃、結婚を考えていた相手との別れも重なってしまって。失業と失恋が同時に来て、軽く引きこもっていました。 ――そこから、どうやって立ち直られたのでしょうか? 正直、その時点では「自信があるのは公務員試験にパスするスキルだけ」でした。だから名古屋市の学校事務職員試験を、年齢制限ギリギリで受けて、何とか滑り込みました。 ただ、いざ安定すると、また「やっぱり英語の仕事がしたい」という気持ちが湧いてきたんです。そのころには、結婚もして、すでに30代になっていました。 ここから何ができるのかを考えて、まずは教員免許を取ってみようと思いました。33〜34歳の頃、日本大学の通信教育課程に入学したんです。教員免許を取るまでには思ったより時間がかかってしまったのですが。 転機を呼び込んだ「ご縁」と「素直さ」 ――英語を軸にキャリアを切り開いていこうと決心された、ターニングポイントはどこにありましたか? 小学校での仕事を通じて、偶然が重なり英語を使う機会が少しずつ増えてきた頃、転職サイトを見るようになったんです。そこで見つけたのが名古屋大学の国際労務担当の研究員のお仕事でした。学位は不要で、学士号があり、TOEIC900点以上の実力があれば応募できるという条件だったんです。 英語力だけでなく専門性も求められる仕事だったので、決して楽ではありませんでしたが、研究員として働く日々はとても充実していました。 研究員の期間中に出産も経験し、産休・育休中に教育実習をこなしてようやく教員免許を取得することができました。 研究員の任期が終わる予定だった時には、「特殊な業務を担当しているから、ぜひ引き続き残ってほしい」と声をかけていただいて。仕事へのやりがいも強く感じていました。 ただ、ここでまた私の悪い癖が出てしまって(笑)。「任期がいつ終わるかわからないこの状況のままでいいのかな」と迷った末に研究員の仕事を離れ、名古屋市立大学の準公務員試験を受けて、再び“安定”の道を選んでしまったんです。 結局、その安定も、最終的には子育てとの両立が難しくなり、夫との関係がうまくいかなくなったことで終わりを迎えました。その後、専業主婦となり、「何か自分でできることはないか」と思い、ブログを書き始めたんです。 ――難しい局面で周囲のアドバイスを上手に生かしていらっしゃいますよね。 私自身、かなり素直なタイプなんだと思います。誰かに「これをやったらうまくいくよ」と勧められて、そこにある程度納得できるロジックが見えたら、まずは試してみるようにしてきました。例えば、あるブログの先生から「文章がうまいから、X(旧Twitter)をやったほうがいいよ。1万人くらいすぐいくと思う」と言われたことがあって。「いやいや、さすがに無理ですよ」と思いながらも、少しおだてられて始めてみたら、本当に半年でフォロワーが1万人を超えたんです。 そうしたアドバイスを信じて動いてみたこと、そして人とのご縁が重なったことで、結果として道が開けていったのだと思います。 英語コーチとしての独立 ――英語コーチになったきっかけは何だったのでしょうか? X(旧Twitter)のDMを通じて、英語コーチング企業からスカウトをいただいたのがきっかけでした。詳しく話を聞いてみると、子どもが寝たあとでも仕事ができて、通勤も不要。日中は確かに仕事が少ないのですが、その時間を使って添削作業ができる。「これはすごく育児と相性がいい働き方だな」と感じたんです。 当時は、専業主婦をしながらXをしていただけでした。育児の合間にSNSを続けつつ、同時に国家資格キャリアコンサルタントの勉強も始めていました。 ――キャリアコンサルタントの資格を取ろうと思われた理由は?… Continue reading 何歳でも英語で人生を変えられる:英語コーチきなこさん
行動が人生を変える‐太極拳を通して学んだ人生の切り開き方【 インタビュー 中国広州滞在 隈本さん Vol.3】
インタビューさせていただいたのは、中国広州在住の隈本祐子さん。第1章では、駐在に行くかもしれないというパートナーの一言から実際に中国駐在が決まるまでの7年間の思いや、実際に中国に渡航してからの生活立ち上げや焦る思いについてお聞きしました。 第2章では、現地の太極拳のコミュニティに参加した経験について、嬉しかったこと、難しかったこと、努力したことについてお聞きしました。 第1章と第2章はこちらから第1章 海外生活への強い思いと”中国”への戸惑い第2章 地元の太極拳グループに飛び込み参加。先生についていく決意。 最終章では、太極拳を通しての隈本さんの心の変化、太極拳への思いについてお聞きしました。 週5〜7日。太極拳中心の生活へ 太極拳は彼女にとって“生活の中心”になった。 週5〜6日、多いときは週7日。毎日のように練習するうちに、太極拳に向き合う姿勢が変わり、家族の見え方も変わっていった。 子どもたちの視点の変化 日本では仕事をしていた母親が、中国への引っ越しを機に突然「仕事をしない生活」になる。最初、子どもたちは戸惑ったと隈本さんは言う。 「ママ、これから何するの?」「ママが仕事しなかったらご飯食べられないよ!」 子どもたちにとって“いつも働く人”だった隈本さん。しかし毎日家で練習する姿を見せるうちに、子どもたちも変わったという。 「”ママは太極拳の人だよね”って。気付いたら、子供たちが自然に受け入れるようになっていた」と隈本さんは笑う。 *お子さんが太極拳を見学に来た日 旦那さんの反応 当初は現地のコミュニティに入ることを心配していた旦那さんも、「一番中国に溶け込んでるのはママだよね。」といつの間にか受け入れるようになっていたという。 「太極拳のイベントに積極的に参加し、平日に開催されたものには子どもを学校を休ませてまで連れていった。いい経験だと思ったから。」 と、当時を思い出して隈本さんは語る。「”ママすごいじゃん”という表情を見せて夫も笑っていた。」 隈本さんが優しい顔で言った。 「がむしゃらにやってきた結果なのかな。」 教える側へ―Expat Circleでの依頼 太極拳を学びはじめて少したった頃、学ぶだけではなく、「教える」立場になる機会が隈本さんに訪れた。 「海外生活者向けのサークル “Expat Circle” で、ヨガや中国茶など自分の得意なことを教える活動をしている人たちがいて、そこから太極拳講師の依頼がきたけど、最初は不安の方が大きかった」 大好きな太極拳を教えるという突然の機会。 当初の不安な気持ちを隈本さんは語る。 「太極拳って、1回で伝えられるものじゃないし、人に教えるってイメージが湧かなかった。」 隈本さんの表情からも簡単な決断ではなかったことがわかる。 「それでも断らずに挑戦してみたけど、やっぱり1回では伝えきれなかった。続けて教えたいとまでは思わなかったけど、これが”自分はもっと極めたい”と感じるきっかけになった」 学ぶ立場から教える立場になってみたことで、太極拳への思いが強まったと隈本さんは語る。 PTA経由で広がった“文化体験”としての太極拳指導 太極拳への思いが強まったタイミングで、さらに予想外の依頼が隈本さんのもとに舞い込んできた。 学校のPTAで知り合った先生が、彼女が太極拳をしていることを知り、声をかけてきたという。 「総合の授業で日中の懸け橋になる内容をやりたい。外部講師はハードルが高いけど、保護者でできる方がいるのなら…。太極拳を教えてもらえませんか?」 突然の依頼、しかも相手は日本人学校に通う子供たち、もちろん隈本さん自身の子どもたちも。 「すごく嬉しかったけど、不安も大きかった。」 当時の気持ちを隈本さんは振り返る。 「子どもに教えるイメージが持てなくて。太極拳を教えた経験、ほとんどないし。」 迷っていたタイミングで、以前一度だけ開催した太極拳講座を、「全8回の講座」としてやってみることを決めたと隈本さんは当時の様子を語る。 参加者5名、24式太極拳。日にちを固定し、本当にやる気のある人に限定して募集した。申し込み1時間以内に予約満席に。隈本さんの新たな挑戦、”太極拳講座”がスタートした。 言語化の難しさ、参加者の熱意 「最初は、自分の動きを言葉にすることがとても難しかった。」 隈本さんは静かに語る。 「“こんな感じで”といっても伝わらない。右手の動きひとつ説明するのも難しい。」 教えることの難しさを隈本さんは振り返る。 「参加してくれた5人はすごく熱心で。毎回動画を撮ったり、家で練習してきてくれた。」熱意をもって学んでくれたことが嬉しかったと、隈本さんは優しい笑顔で語る。 彼女がどれほど太極拳を大切にしてきたか知っている人たちだったからこそ、参加している方も理解と熱意が強かったようだ。 少しずつ変化があったことを隈本さんが教えてくれた。「靴が太極拳の靴に変わって、服装も少しずつ太極拳仕様になってきた。みんなが楽しむ姿が嬉しかった」 嬉しそうな表情から当時の気持ちが伝わってくる。 最後には全員で動画を撮影し、8回の講座は大成功で終わった。 「こんなふうに広がっていくことに驚きと感動があった。」 嬉しかった気持ちを隈本さんが語る。 「太極拳の仲間にも報告したら、”すごい、よくやってるね!”と温かい言葉をかけてくれて。公園の真ん中に受講生5人を連れていった時も、みんなが温かく迎えてくれた。」… Continue reading 行動が人生を変える‐太極拳を通して学んだ人生の切り開き方【 インタビュー 中国広州滞在 隈本さん Vol.3】
「心に響くパフォーマンスを追い求めて」バイリンガルアナウンサー・野口美穂さん
Hi there! Welcome to my blog. こんにちは、Sachiko です。 英語はあなたのキャリアにどんな影響を与えていますか?どうすれば「キャリアの武器になる英語」を身につけられるのでしょうか? 英語を軸にキャリアを紡いできたSachiko が、英語の達人のみなさんにその秘訣を伺います。 今回ご紹介するのは、バイリンガルフリーアナウンサーとして知られる野口美穂さんです。岐阜県に拠点を置きながら、英語を武器にグローバルな舞台で活躍されています。 愛知国際放送(Radio-i)で日英バイリンガルニュースアナウンサーや番組パーソナリティーを務めた後、国際カップルの披露宴や、国際会議、企業のグローバルイベントでのバイリンガルMC、ステージ通訳など、活動の幅を広げてこられました。さらにGoogleマップのカーナビ音声を担当したことでも知られています。 また、全米No.1セレブリティボイスコーチ Roger Love氏の認定ボイスコーチ資格を取得し、近年は「世界で活躍する人のためのバイリンガル英語スピーキング指導」にも力を入れていらっしゃいます。 今回は、キャリアの歩み、英語との出会い、バイリンガルアナウンサーという新たな職域を切り開くまでの道、そして子育てと仕事の両立について、じっくりとお話を伺いました。 バイリンガルアナウンサーという仕事 ――まず、「バイリンガルアナウンサー」とはどのようなお仕事なのでしょうか? 実は、先人の方はいらっしゃるんですけれど、私の場合は“自称”というのが正しいんです(笑)。ラジオでアナウンサーをしていたこともあり、「MC、バイリンガル司会、モデレーター、パブリックスピーカー」など、スピーキングを軸にする職業を分かりやすくするために自分のことを “バイリンガルアナウンサー”と呼んでいます。ただ、英語では“アナウンサー”という言い方はせず、professional speaker, emcee, moderatorと名乗っています。 英語との出会い ―― 高校時代の留学が原点 ――高校時代のアメリカ留学が大きなきっかけだったのでしょうか? AFSの交換留学でメリーランド州の公立高校に通ったんですが、英語の授業についていくのが本当に大変で。 リーディングの課題が20ページとか、高校生にはかなりハードでした。でも振り返ると、人前で話す機会が多かった気もします。 留学前から洋楽が好きで、バイリンガルで話すラジオDJにも憧れていました。 大学での学びが、今の仕事につながった ――大学で専攻されたオーラル・インタープリテーションは、現在のお仕事にどう活かされていますか? オーラル・インタープリテーションは、文学作品やスピーチなどの文章を“声で表現する”学問です。 朗読とは違って、作品の意味や感情、リズムを捉え、声と身体表現を通して伝えるもの。演劇的ですが、台本を必ずしも暗記するというわけではなく、テキストを解釈しながら読み上げるのが特徴です。 この学びが、今のバイリンガルMCの仕事にとても活きていますね。 人生の転機 ―― 流産、ラジオ局閉鎖、そして新たな道 ――秘書、通訳、海外営業などさまざまなキャリアを経て、どのようにMCの道に進まれたのでしょうか? 短大卒業後は岐阜の企業で秘書をしていました。そこで外国からのVIPをアテンドする方がいて、通訳ガイドの資格があると伺ったのがきっかけで、私も挑戦しようと思ったんです。 事務所を辞めて勉強に専念し、英検1級と通訳ガイドの資格を取得しました。 通訳学校にも通ったんですが、日本語でのアウトプットがうまくできなくて、日本語スピーキングを鍛えるためにアナウンス学校へ行ったら、そちらの方が断然おもしろかった(笑)。そこで「あ、通訳は向いてないな」と悟りました。 その後、社内通訳のような仕事に就いたとき、通訳ガイド資格のおかげで時給が少し高くなって、「資格を取っておいてよかった!」と実感。 その仕事の傍ら受けたオーディションで、FM放送レディオアイの日英ニュース読みの仕事を得ました。 ――そこから大きな転機があったそうですね。 はい。妊娠後に流産というつらい出来事を経験したのですが、その後ラジオ局で番組再編成があり、自分の番組を持てるチャンスが来ました。 迷いながらも引き受けて半年ほど担当しましたが、残念ながらラジオ局自体が閉鎖に。 朝番組で体力的にも厳しかったので、長く続けるのは難しかったかもしれません。 MCの仕事が軌道に乗るまで その後は妊活を優先するため、自由に働けるよう自営業に。自分でホームページも作りました。 きっかけは、友人(オーストラリア人と結婚)から頼まれた披露宴MC。フランス語も話せるので、日仏カップルの披露宴MCも経験し、そこから自然と仕事が広がっていきました。 バイリンガルMCの仕事を紹介するキャスティング事務所にも登録し、シャンパンメーカー、フェラーリ、東京国際映画祭など大規模イベントのMCも担当しました。 岐阜在住の自分に依頼が来るのか不安で料金も抑えていたのですが、実績が増えるにつれ適正価格に。 パフォーマンス動画をYouTubeにアップし、それを見た企業から「うちでもお願いします」と依頼が来るようになり、そこから仕事が好循環に入りました。… Continue reading 「心に響くパフォーマンスを追い求めて」バイリンガルアナウンサー・野口美穂さん
3社で凹んで止まる転職活動、もう終わりにしよう
転職や再就職を考え始めたとき、多くの方が、まず求人を探し、いくつか応募します。そして、こんな状態で立ち止まります。 「とりあえず3社くらい応募してみたんですが、全部落ちてしまって、正直凹んでます。やらないといけないと思ってはいるんですが、気が乗らないんです。」 このような言葉を、ご相談の現場で何度も聞いてきました。 落ちると、正直しんどいですよね。否定されたような気がして、「やっぱり私には無理なのかも」と思ってしまう。今日は、そんな方に向けて、少しだけ現実を一緒に見てみる話をします。 転職活動は「3社で判断できるもの」ではない まず、数字の話をします。 マイナビ転職のデータによると、転職活動者の平均応募社数は約8.4社。 思ったより多いと感じませんか?「2〜3社応募して、様子を見る」そんなイメージを持っている方も多いのですが、実際には、8社以上応募している人が多数派です。 さらに年代別に見ると、41歳以降では、10社以上応募している人が多いという結果も出ています。 つまり、年齢が上がるほど1社ずつ慎重に、というより、ある程度の数を前提に動く。そんな転職の仕方に、自然と変わっていくのです。 そこにはやはり、・書類選考の通過率が下がりやすい・企業側の目線がよりシビアになる・経験があっても、年齢で判断されるそのような状況があるわけです。 ですので、3社応募して、全部落ちたという状態は、「もうダメ」ではなく「やっとスタート地点に立った」くらいの位置。 数字で見ると、そう言えるのです。 へこんでいい。でも止まらないでほしい ここは、とても大事なところなので、しっかりとお伝えしたいのですが、凹んでも、落ち込んでもいいですが、立ち止まらないでください。 転職活動は、自信が満タンになってから始めるものではありません。不安なまま、迷いながら、自信が揺らいだ状態で、それでも動き続けた人だけが、次に進めます。 応募社数は「量」。でも、本質はそこではない だからと言って「とにかく数を打て」と言いたいわけではありません。応募社数は、たしかに量です。でも、その裏側で何が起きているかというと、 1社応募するために、・私たちはこれまでの仕事を振り返り・自分の強みの言語化・なぜこの会社で働きたいのかを考える・どんな働き方をしたいのかを問い直す このように、かなりエネルギーを使いますよね。 だから、3社で疲れてしまう人が多いと思っています。それは、本気で向き合っている証拠です。ただ、考えたまま止まってしまうのは、正直もったいない。そう思うんです。 判断軸があると、迷い方が変わる ここで大事になるのが、判断軸です。 ☆私は、働く上で何を大事にしたいのか☆どんなあり方で仕事をしたいのか☆何を守って、何を手放すのか これが言葉になっていると、迷ったときに立ち戻る場所ができます。 落ちた経験は、振り返ることで次につなげる 面接で落ちると、メンタルは削られます。一旦、落ち込んでいいと思います。ただ、そこで終わらせないでほしい。誰かに話す。振り返る。次の作戦を立てる。アクションを起こしてほしいんです。 応募する仕事の方向性や、応募書類でさらに工夫できる点、面接で伝え方を変えられそうなところ等、これを一つずつ整理していくことが、次につながる推進力になります。 地味ですが、これは立派なPDCAです。転職活動は、実はあなたを成長させ、未来を拓く力を付ける、そんな活動でもあるんです。 転職活動で、あなたの価値の全てが決まるわけではない 最後に、これだけはお伝えしたい。 転職活動で、あなたの価値が全て決まるわけではありません転職活動は、応募した会社との相性を確かめる場です。 別な見方をすると、落ちた、その会社はあなたとは合わないんです。応募した会社側が、そう判断した結果とも言えます。なので、合わない場所に行かずに済んだ、という見方もできると思っています。 しっかり準備をして、前に向かって歩んでほしい。そう思っています。 ※キャリアブレイク前後のご相談(離職・転職など)・人間関係など、幅広くご相談を承っております。詳しくはこちらのHPをご参照ください。納得の未来を支えるキャリアコンサルタント・三橋久美子のHP ※キャリアブレイクからの復職や転職をお考えの方は、是非「キャリア・リスタート準備度チェック 〜 私らしく働くための第一歩 〜」を実施してください。ご自分がどのくらい準備が整っているか、知ることができますよ! ※日々の家事や家族サポートを「見えるかたち」にまとめました。「家庭運営マネージャーの職務要約~主婦業のリアルディスクリプション~」・再就職に向けて、これまでの経験を整理したい方・ 面接や履歴書で「主婦業をどう伝えればいいか」悩んでいる方・ 自己理解やキャリアの棚卸しをしたい方そんなあなたに、おすすめの1枚です。 ※毎週土曜日朝6:00~voicyでも皆様にキャリア・終活・お金・女性特有の体調(フェムケア)についてお伝えしています。後からも聞くことができますので、是非お耳をお貸しください。40代から人生を変えるラジオ/ミアビータ・アーカイヴ一覧40代から人生を変えるラジオ/voicyチャンネル
地元の太極拳グループに飛び込み参加。先生についていく決意。【 インタビュー 中国広州滞在 隈本さん Vol.2】
インタビューさせていただいたのは、中国広州在住の隈本祐子さん。第1章では、駐在に行くかもしれないというパートナーの一言から実際に中国駐在が決まるまでの7年間の思いや、実際に中国に渡航してからの生活立ち上げや焦る思いについてお聞きしました。第1章はこちらから 第1章 海外生活への強い思いと”中国”への戸惑い 運命の出会い珠江公園の“30分”がすべてを変えた 「まずは中国語の先生に、太極拳を習えるところを知らないかと相談したら、日本語が少しできる人がいる教室の連絡先をつないでくれた。ちょうど子どもが翌日から学校だから、”とりあえず見学してみよう”と思っていた。」 当時を振り返って隈本さんは語る。 しかしその日、ふと立ち寄った近所の公園が隈本さんの人生を変える。隈本さんは そこで太極拳をしているグループを見つけた。 「30分間、ずっと目が離せなかった。 動きはまるで仙人のように静かで、流れるようで、瞑想のようだった。年齢の高い方々がずっと同じ動きを覚えている姿が、とてつもなく美しく見えた。」 求めていたものと出会った瞬間の心がひかれた様子を隈本さんは語る。 「これだ。」 気づけば、その場で太極拳の先生らしき人にスマホの翻訳アプリを使って話しかけていたという。 「これは太極拳ですか?あなたは先生ですか?私もやれますか?」 隈本さんの質問に、先生はニコニコしながら 「いいよ、いいよ!」 と言い、すぐにWechatを交換してくれた。 “外国人は初めて” そんな環境での丁寧なメッセージの数々 「外国人が来るのが初めてだったみたい。でも、すごく歓迎してくれた。」 隈本さんは笑顔で当時の様子を振り返る。中国語ができないことを気にする隈本さんに対して先生は随時優しく接してくれたという。 「今回のインタビューをきっかけに過去のやり取りを振り返ったら、すごい丁寧にメッセージしてくれていたことを思い出した」 太極拳を始めたばかりの頃のやり取りを見返すと、先生からのメッセージで溢れていたという。 集合時間 お金のこと グループの仕組み 休憩のタイミング 心配してくれる言葉(疲れてない?大丈夫?) 「すごく丁寧に、小さなことも気にかけてくれてたんだって気づくことができた」先生のことを話すときの隈本さんは表情がやわらかくなる。 “言葉が通じない”現実と、仲間になるために選んだ方法 太極拳のグループは約30人。先生はWelcomeな雰囲気だったが、他の人たちも最初は、興味津々で話しかけてくるものの会話が成立しなかったという。 「話しかけてくれる、でも伝わらない、コミュニケーションがとれないとそのうちに面倒くさくなって離れていく。そんな空気も感じていた」当時の様子を隈本さんは振り返る。 ときには、自分の方を向きながら何かを言われていると、 「悪いことを言われているのかも…」 と不安になることさえあったという。 だが、隈本さんはその状況に不満を感じるのでもなく、あきらめるのでもない。 「ここで仲間になるには中国語じゃなくて“太極拳の上達”だと思った」隈本さんの言葉から強い思いが伝わる。 「太極拳は動きで会話ができる世界。 だからこそ、毎日必ず通う、先生の動きを動画で撮る、家で復習して翌日にはできるようにする、これをしっかりやるようにしていた」 言葉ができないことを理由にやめることだってできるはずだが、そんな選択肢は隈本さんの中にはなかった。 努力の甲斐があって、周りのメンバーにも変化が生まれ始める。少しずつメンバーとの関係性がかわっていった。 「”2年前はほんとにできなかったのにね”と今は笑い合えるようになった」 笑顔で語る隈本さんからは、努力を重ねて乗り越えた芯の強さが伝わってくる。 *太極拳のメンバーと一緒に 日中関係の緊張の中で。“私がいて大丈夫?”と揺れる気持ち 太極拳に入ったのは、2023年の8月ころ。ちょうど日本の 処理水問題が中国で話題になっていた時期だった。 「日本への否定的な報道、領事館からの注意喚起メール、家族からの心配の連絡…。グループチャットにも、中国側の日本批判動画が流れてきた」 当時の状況を振りかえりながら隈本さんは語る。 「人生で初めて、自分が”日本人だから”という理由で居心地の悪さを感じた瞬間だった。私がいることで、みんなが嫌な思いをしていないかな… ここに来てもいいのかな…」 悩んだ隈本さんは、先生に正直に連絡した。「国と国の関係は揺れている。ここで出会った人たちを傷つけたくなかった。」 当時の悩んでいた思いを隈本さんがゆっくりと語る。 「今の状況で、私がいることで誰か嫌な気持ちになっていませんか? 私はここにいてもいいですか?」 不安な気持ちを正直に先生にメッセージしたと隈本さんは当時を振り返る。センシティブな話題も正直に相談することができたのは、先生との信頼関係ができていたからだろう。 「国と国はいろんな問題があるけど、個人と個人には関係ない。 日本人だからじゃなくて、あなたを迎え入れている。… Continue reading 地元の太極拳グループに飛び込み参加。先生についていく決意。【 インタビュー 中国広州滞在 隈本さん Vol.2】
