地元の太極拳グループに飛び込み参加。先生についていく決意。

インタビューさせていただいたのは、中国広州在住の隈本祐子さん。第1章では、駐在に行くかもしれないというパートナーの一言から実際に中国駐在が決まるまでの7年間の思いや、実際に中国に渡航してからの生活立ち上げや焦る思いについてお聞きしました。第1章はこちらから 第1章 海外生活への強い思いと”中国”への戸惑い 運命の出会い珠江公園の“30分”がすべてを変えた 「まずは中国語の先生に、太極拳を習えるところを知らないかと相談したら、日本語が少しできる人がいる教室の連絡先をつないでくれた。ちょうど子どもが翌日から学校だから、”とりあえず見学してみよう”と思っていた。」 当時を振り返って隈本さんは語る。 しかしその日、ふと立ち寄った近所の公園が隈本さんの人生を変える。隈本さんは そこで太極拳をしているグループを見つけた。 「30分間、ずっと目が離せなかった。 動きはまるで仙人のように静かで、流れるようで、瞑想のようだった。年齢の高い方々がずっと同じ動きを覚えている姿が、とてつもなく美しく見えた。」 求めていたものと出会った瞬間の心がひかれた様子を隈本さんは語る。 「これだ。」 気づけば、その場で太極拳の先生らしき人にスマホの翻訳アプリを使って話しかけていたという。 「これは太極拳ですか?あなたは先生ですか?私もやれますか?」 隈本さんの質問に、先生はニコニコしながら 「いいよ、いいよ!」 と言い、すぐにWechatを交換してくれた。  “外国人は初めて” そんな環境での丁寧なメッセージの数々 「外国人が来るのが初めてだったみたい。でも、すごく歓迎してくれた。」 隈本さんは笑顔で当時の様子を振り返る。中国語ができないことを気にする隈本さんに対して先生は随時優しく接してくれたという。 「今回のインタビューをきっかけに過去のやり取りを振り返ったら、すごい丁寧にメッセージしてくれていたことを思い出した」 太極拳を始めたばかりの頃のやり取りを見返すと、先生からのメッセージで溢れていたという。 「すごく丁寧に、小さなことも気にかけてくれてたんだって気づくことができた」先生のことを話すときの隈本さんは表情がやわらかくなる。  “言葉が通じない”現実と、仲間になるために選んだ方法 太極拳のグループは約30人。先生はWelcomeな雰囲気だったが、他の人たちも最初は、興味津々で話しかけてくるものの会話が成立しなかったという。 「話しかけてくれる、でも伝わらない、コミュニケーションがとれないとそのうちに面倒くさくなって離れていく。そんな空気も感じていた」当時の様子を隈本さんは振り返る。 ときには、自分の方を向きながら何かを言われていると、 「悪いことを言われているのかも…」 と不安になることさえあったという。 だが、隈本さんはその状況に不満を感じるのでもなく、あきらめるのでもない。 「ここで仲間になるには中国語じゃなくて“太極拳の上達”だと思った」隈本さんの言葉から強い思いが伝わる。 「太極拳は動きで会話ができる世界。  だからこそ、毎日必ず通う、先生の動きを動画で撮る、家で復習して翌日にはできるようにする、これをしっかりやるようにしていた」 言葉ができないことを理由にやめることだってできるはずだが、そんな選択肢は隈本さんの中にはなかった。 努力の甲斐があって、周りのメンバーにも変化が生まれ始める。少しずつメンバーとの関係性がかわっていった。 「”2年前はほんとにできなかったのにね”と今は笑い合えるようになった」 笑顔で語る隈本さんからは、努力を重ねて乗り越えた芯の強さが伝わってくる。  *太極拳のメンバーと一緒に 日中関係の緊張の中で。“私がいて大丈夫?”と揺れる気持ち 太極拳に入ったのは、2023年の8月ころ。ちょうど日本の 処理水問題が中国で話題になっていた時期だった。 「日本への否定的な報道、領事館からの注意喚起メール、家族からの心配の連絡…。グループチャットにも、中国側の日本批判動画が流れてきた」 当時の状況を振りかえりながら隈本さんは語る。 「人生で初めて、自分が”日本人だから”という理由で居心地の悪さを感じた瞬間だった。私がいることで、みんなが嫌な思いをしていないかな… ここに来てもいいのかな…」 悩んだ隈本さんは、先生に正直に連絡した。「国と国の関係は揺れている。ここで出会った人たちを傷つけたくなかった。」 当時の悩んでいた思いを隈本さんがゆっくりと語る。 「今の状況で、私がいることで誰か嫌な気持ちになっていませんか? 私はここにいてもいいですか?」 不安な気持ちを正直に先生にメッセージしたと隈本さんは当時を振り返る。センシティブな話題も正直に相談することができたのは、先生との信頼関係ができていたからだろう。 「国と国はいろんな問題があるけど、個人と個人には関係ない。 日本人だからじゃなくて、あなたを迎え入れている。 何か言われたら私に言いなさい。私が守るから。」 先生からのまっすぐな言葉に、隈本さんは心から安心したという。 「周りが何か言っても、この先生についていこうと思った」 口調からも当時の強い決意が伝わってくる。 *先生と隈本さん… Continue reading 地元の太極拳グループに飛び込み参加。先生についていく決意。

海外生活への強い思いと”中国”への戸惑い

今回のインタビューは、「いつか海外で暮らしたい」という思いを胸に抱いていた隈本祐子さんを取材。第1章、第2章、第3章の3回にわけて、隈本さんの経験をお届けします。 2026年1月現在も、中国にて駐在同行生活を過ごしている隈本さん。初めての中国での生活、太極拳との出会い、そして自分自身の内面の変化についてじっくり語っていただきました。 学生時代に芽生えた海外への憧れ、旦那さんの海外赴任の知らせを待ち続けた日々。実際に中国行きが決まった瞬間の戸惑いと期待、そして到着してからの慌ただしい日々。さらに、太極拳の世界に飛び込んだことで見えてきた中国の人たちの温かさや文化、そこから起こった自分自身の変化——。 中国での挑戦の全容をごらんください。 海外への思いと、7年前の“最初のサイン” 隈本さんが”海外に行くかもしれない”という未来を初めて意識したのは、お子さんが2歳の頃だったという。今から7年前のことだ。 当時、旦那さんの会社で”海外に行きたいか”を問うアンケートがあり、旦那さんはYESを選択。「もともと海外に行きたいという思いがあったから、いつでも行く!という気持ちでいた」と隈本さんは当時を振り返ります。 しかしそこから実際に辞令が出るまで5年。 「”いつか行く”と思いながらも、日々の生活は続く。行くかもしれない、でもいつかはわからない。その宙ぶらりんな期間が長くて、習い事を始めても”すぐ辞めるかも”、洗濯機を買い替えるにも”あと何年使うかわからない”と買うことを迷う。そんな生活が続いて、”早く決まってほしい!”という気持ちがどんどん強くなってきた」 なかなか決まらない海外駐在に生活の軸が定まらないことがあったことも教えてくれた。 一方で、新しいことに動き出せたタイミングだったとも隈本さんは語る。 「海外に行くなら仕事は辞めることになるだろうと思っていたから、渡航からの帰国後を見据えて資格を取ったり、働き方を子どもに合わせて変えたり、会社勤めのままでは踏み出せなかったことにも自然と挑戦するようになった」 もやもやする気持ちで立ち止まらず、行動にうつせるのは隈本さんの強みだと思う。 「子供たちには小さい頃から”いつかどこかに行くかもよ”と言い聞かせてきた。世界地図を見ながら”ブラジルかな?”と想像してみたり」 未来の形を親子で一緒に描くことで家族での移住への準備を進めていた隈本さん。 ついに2023年7月、1年生が終わるタイミングで正式な内示。旦那さんは先に3か月前に出発。隈本さんと子どもたちは後から合流する形になった。  “中国”という響きへの戸惑いと、海外への強い思い 行き先が「中国」と聞いたときの気持ちはどうだったのか尋ねると、隈本さんははっきりこう言った。 「国としてどこでもよかった。でも中国と聞いた瞬間、日本の報道のイメージが強くて”え、中国?一番行きたくないかも”と思った。」 ニュースで見聞きする中国の印象は決して良いものばかりではない。知識も経験もない国への不安は当然大きかった。 「それでも、心の奥では”日本にずっといるよりも外に出たい”という思いだった。」 当時を振り返って隈本さんは語る。 大学時代に初めての海外旅行をして世界の広さに夢中になった隈本さん。20歳の頃には頻繁に海外へ出るようになっていたという。とくにタイが大好きで、転職のタイミングで1か月滞在して語学学校に通い、覚えた言葉をすぐ使って喜んでもらえる感覚がとても楽しかったという。 「カナダ人のおじさんとフェリーで偶然知り合い、Hotmailを交換し、その出会いがきっかけで英会話教室に通い出したこともあった。文法が嫌いで英語学習は得意じゃなかったけど、言葉の壁が少しずつなくなっていく感覚は励みになった」 出会ったばかりの人とでもすぐに仲良くなれるのは隈本さんの昔からの強みのようだ。 そんな隈本さんの生活も子どもが生まれてからは変化があった。 「独身の頃みたいに危険な場所に行ったりはできないと思ったし、自分の判断だけで動けないと思った。子連れでの旅行は、海外に行ったとしても自分が楽しめない」 子連れではなかなか行きにくいような旅行先が好きだった隈本さんは、子供を連れての海外旅行は難しいと感じていた。 だからこそ、旅行としてではなく“生活として海外に住む”という発想のほうがしっくりきたのだという。今回の海外赴任の話が出た瞬間に迷いなく”行きたい”と思えたのもそんな背景があったからこそ。 中国到着直後の1か月——生活の立ち上げと、終わりの見えない奔走 2023年7月。隈本さんと子どもたちはついに中国に到着した。 「到着後の最初の1か月は子どもたちの夏休み期間と重なり、「とにかく生活しなければ!」という緊張感の中で始まった。」当時を思い出して隈本さんは笑顔で話す。 ・どこで食材を買えばいいのか・買い物アプリすら登録していない・先に届けていた段ボールは旦那さんに開封されることはなくほぼそのまま・歯ブラシも箱に入ったまま 生活の基本が整っていない状態でのスタートだったという。 「仕事を長く続けてきたから、子どもと1か月丸々夏休みを過ごした経験は初めてで、それもまた不安材料だった」 仕事をやめたことで毎日子供と過ごす日々、しかも異国で。そんな不安の中で、紹介されて出会った友人の存在は大きかったと隈本さんは語る。 「子どもたちも一緒にいろいろな場所へ連れて行ってくれた。彼女がいたことが生活を立て直すための大きな支えになった」 当時の大変な中で友人との楽しかった日々を隈本さんは笑顔で語る。 とはいえ、子どもと過ごす時間は慌ただしく、自分のために何かを考える余裕はなかったという。親子ともに早く中国語を話せるようになりたいという気持ちもあり、すぐに中国語教室を探し始めた。 そして8月中旬、学校が始まる2~3日前になって、隈本さんは急に焦燥感に襲われる。 「子どもたちが学校へ行き始めたら、私はどう過ごすんだろう?そう思って、ネットで ”駐妻 中国 習い事” と検索しながら、自分が中国で何をするのかを手探りで探してみた。 期間は3年半と聞いていたから、ただ暮らすだけではなく、”何かを見つけたい、何かを得て帰りたい” という気持ちが強かった」 当時の焦った気持ちを語ってくれた。 現地での生活を考えた隈本さんには一つの思いがあった。  「日本人コミュニティの中で安心したい」ではなく「中国の人たちの中で何かを始めたい」 という思いのほうが強かったという。 「言葉がわからない状態で飛び込んだほうが、むしろ距離が近くなる。そこが自分の強みかもしれない」 隈本さんの心のしなやかな強さが伝わってくる。 「何かを見つけたい、何かを得て帰りたい、でも日本人が多い場所で安心して始めたいわけではない、できれば中国の人たちの中に入っていきたい、言葉はわからなくても、飛び込んだほうが早く馴染める気がしたし、体を動かすことのほうが自分に向いている気がした」 そんな中ふと思い浮かんだのが太極拳だったという。 「やったこともないし、特別興味があったわけでもない。でも、中国で何かを始めるなら…太極拳っていいんじゃないかな、と。」 次回予告 彼女の目に留まったのは、公園で行われていた太極拳。… Continue reading 海外生活への強い思いと”中国”への戸惑い

「行くって決めたなら最大限楽しむ」

横浜出身、現在は愛知県在住の天野優歌さん。2児の母でありながら、自分らしく海外生活を楽しんだ彼女の言葉には、しなやかな強さと柔軟さがにじんでいます。 海外への興味は、中学生の頃から自然と育まれてきました。横浜市の国際平和スピーチコンテストで入賞し、ニューヨークの国連本部を訪問した経験は、若き日の彼女にとって大きな原体験に。さらに高校ではマレーシアへの1年間の留学も経験し、「いつかまた海外で暮らしたい」という想いをずっと胸に抱いてきたといいます。 「夫の中国駐在が決まったときも迷いはありませんでした。 “せっかくのチャンスなら、行かない理由がない”。自分の海外経験もあったし、子どもたちにもその経験を一緒にさせたいと思って。」 とはいえ、当時はコロナ禍。先に中国へ渡航した旦那さんと1年後に現地で合流し家族での中国生活が始まったものの、感染対策が厳格な中国での生活には不安もあったと言います。 「でも、自分で“行く”と決めたからには、最大限楽しもうと決めてました。」 そう話す天野さんの声は明るく、迷いがない。現地での生活をふり返ると、「できないこと」より「できること」に目を向けた日々だったといいます。 「日本にいたらこうだったな」じゃなくて 「日本にいたらこうだったな、じゃなくて。そこに行ったからできることっていっぱいあると思う。時間があるっていうのもアドバンテージだった」 その“時間を味方につける”発想が、天野さんの海外生活を豊かにした。朝の市場を歩いてみたり、地元の方でにぎわう体育中心と呼ばれる広場でおばあちゃんたちとストレッチしたり。青空の下で体を動かす“青空ジム”は、やがて彼女の大切な居場所になっていきました。 「中国語も勉強したし、生活が楽しくなって。たまにさぼってると“来なくなったね”って言われたり。日本に帰国するときはお守りをくれた。日々のこういうふれあいって、日本にいたらなかなかできないことだと思う。怖い情報もあるけど、実際に動いてみて、ふれあってわかることがある。動き方次第、考え方次第で海外生活って変わるなって思った。」 話しながら、当時の風景を思い出しているように少し声が弾む。現地の方との交流を心から楽しんでいた様子が伝わってくる。 “我是外国人”から始まった関係 「最初は言葉もできなかったから、“我是外国人(私は外国人)”って言ってた(笑)。でも毎日、週に何回も行くから、顔を覚えてもらって、“おはよー”“あっち空いてるよ”って声をかけてもらえるようになった。」 少し照れくさそうに笑いながら、当時を振り返る天野さん。 少しずつ打ち解けていく中で、地元のおじいちゃんおばあちゃんたちが自分の過去や家族の話をしてくれるようになった。 「昔は田舎から出稼ぎで来て大変だったけど、今はのんびりして孫と飲茶するのが幸せだよとか。戦争の話をしてくれた人もいて、“日本の政府は好きじゃないけど、日本人だからって嫌いじゃないよ”って言ってくれたの。そういう言葉にすごく救われた。」 国を超えて、心が通い合った瞬間の記憶だった。 でも、最初からそんな風になじめたわけではない。 「最初はね、いろんな人がいるから、必ずしもみんながWelcomeじゃないの。中国語わからないと無視されることもあるし、最初は“もう無理”って思って帰りたくなる時もあった。でも、“外出たくない”って引きこもらずに、続けてみることが大事だなって思った。」 “みんなと仲良くしなくていい”という学び 経験からにじむ言葉には、優しさと強さがある。人間関係の築き方も、中国で気づいたことだという。 「駐在妻って、マンションが一緒、学校が一緒、バスが一緒という理由だけで集まらなくちゃいけない時もある。でも、 みんなとみんな友達にならなくていいって思えたのはすごく大きかった。」 “無理に仲良くしようとしなくていい”。その気づきが、どんな土地でも自分らしく過ごす力になっていく。 「  “子供の学校が一緒だから”じゃなくて、自分の“好き”の接点があるとすごく心地よい。”語学が好きだから”とか”辛い物が好きだから”とか、好きの気持ちが一緒の人といるってすごく大事だなと思った。」 “好き”というキーワードを口にするとき、声が少し高くなる。心から楽しんでいた時間を思い出しているのだろう。 “自分で作る環境”と“与えられた環境”は違う。だからこそ、自分の核になる“好き”を持つことが、心のバランスを支えてくれたと天野さんは語る。 「挑戦してみて、いやだったらやめればいい」 「幼稚園では親として何も参加しなくても卒園できた。でも、せっかくだからと思ってボランティアをしてみた。」当時を振り返って天野さんは語る。 「 先生とのコミュニケーションもとれたし、卒園してからも仲良く遊ぶ友達ができた。挑戦してみるって勇気がいるけど、やってみて、いやだったらやめてもいい。得られるものが多かったと思う。」 その潔さと軽やかさが、彼女らしい。 「仕事で行ってるわけじゃない。だから失うものもない。それってすごい強みだと思う。自由だよね。」 “自由”という言葉を言い切る声は、どこかすがすがしい。 「自分の機嫌は自分でとる」 あまりにも前向きに楽しかった日々を語る彼女に、大変なことはなかったのか聞いてみた。 「心がおれる時もあったよ。でも、旦那さんの仕事のために来てるわけだから、自分の機嫌は自分でとらなきゃいけない。ジムに行き始めたのも、自分のリフレッシュの時間だった。24時間空いてるジムがあって、どれだけお世話になったか。」 話しているうちに、自然と笑い声がこぼれる。苦しい時期を越えた今だからこそ、穏やかに話せるのだろう。 「家族の空気がちょっとイヤな感じになったら、“散歩行ってくる”って言って外に出たり。そういうストレス改善方法を見つけておくのってすごい強いと思う。リフレッシュって特別なことじゃなくていい。行きやすいお店見つけて、大好きなワンタンメン食べるとか、それで十分。」 自分が何で元気になれるかを知っておくことが大事だと彼女は語る。 「豪華なご飯や飲み物も経験したけど、自分はそれはリフレッシュにはならなかった。人によっても違うと思うから、自分は何をしたら元気になるのか、色々やってみて知ることも大事」 その言葉には、現地で生きていく中で身に着けた彼女の強さが見えてくる。 「青空ジム」からつながった仕事 中国から日本に帰国して10か月。最近ジムで仕事を始めたという天野さん。 「日本に帰国してからもずっとジムに通っていた。子どもが学校に慣れるまでの1年はパートにしたいと思っていたけど、子供が思っていたよりもすぐに生活に慣れたから、 毎日ジム行く時間もあるし、他にすることないから“働こうかな”って。ホリエモンの本に、“流れに身を任せて、面白いと思ったらやってみればいい”って書いてあって、 じゃあやってみようって(笑)。」 海外で見つけた“青空ジム”から、今では職場としてのジムへ。新しい環境でも、軸は変わらない。 「中国のおばちゃんたちとの運動から始まって、今は室内のジムにいるけど、実はあの時につながっているって感じる。中国では、ちょっとしたあいさつではじまって、迎え入れてくれる人がいて。話しかけてくれた人たちがいたから心地よかった。今は、自分が迎える側になって、“気持ちよく来てもらえるように”って意識してる。恩送りだなって思う。」 “恩送り”という言葉を口にしたとき、声がふっとやわらいだ。そこには、過去と今が静かに結びついている。 行くと決めたなら、最大限楽しむ 「怖い情報も不安もあるけど、実際に動いてみたら見える景色って変わる。行くって決めたなら、楽しむだけ。できないことに目を向けるんじゃなくて、“ここでしかできないこと”を見つけた方がいい。」 天野さんの言葉には、海外生活を越えて“どんな環境でも自分らしく生きるヒント”が詰まっていました。… Continue reading 「行くって決めたなら最大限楽しむ」

駐在同行生活って何してる? 2年半で築いた語学交流会

2022年の夏、夫の駐在に同行することを決めて中国・広州へ渡りました。会社を退職し、私のビザでは現地で働けなかったため、仕事はしていませんでした。 「じゃあ毎日なにをしていたの?」とよく聞かれます。駐在に帯同していた間にはいくつかの活動をしていましたが、その中でも印象に残っているのが 語学交流会 です。 小さく始めた「広州語学交流会」 2023年の頭、中国語の勉強をはじめて数か月たち、語学力を伸ばすために会話練習をしたいと思った頃。 語学交流会、語学ミートアップなどを探してみましたが、コロナの影響でオフラインのイベントはゼロ。 思い切って「広州語学交流会」という活動を自分で始めてみました。週に一度、カフェに集まり、語学を練習するだけのシンプルな会。 続くかどうかもわからない、でもまずはやってみようと思って始めたのを覚えています。 参加者は少しずつ増えていった 最初は友人10人ほどに声をかけ、集まったのは毎回3〜5人。カタコトの中国語と、ほとんど日本語で、それでも「練習したい」という気持ちを持った人が集まることが嬉しくて、毎週続けていました。 そこから少しずつ広がり、半年後には登録者が170人に。日本人の参加者が当初は多かったのですが、駐在に同行してきている方は、いつか帰国のタイミングがやってくる。 定期的にメンバーが帰国してしまう状況では持続性がないかもしれないと気づきました。 この活動をより長く続けたいと思い、現地SNSに活動を紹介してみると、一気に問い合わせが殺到。1か月で100人以上増え、対応しきれず募集を一度止めるほどの大盛況! その後も口コミやSNSでのご案内で参加してくださる方が増え続け、最終的に、私が帰国する頃には700人を超えるグループにまでなりました。 毎週の楽しみになった時間 毎週金曜日の午前中、広州のカフェに集まっては、日本語や中国語や英語が入り混じる会話を楽しみました。時には、広東語、フランス語、スペイン語など様々な言語が飛び交うことも。 旅行や出張で広州に来た方が「前から参加してみたかった!」と立ち寄ってくださることもあり、本当に嬉しかったです。 駐在同行生活を振り返って 振り返ってみると、中国での2年半の中で、この語学交流会は大切な居場所でした。ゼロから始めた小さな集まりが、国籍も言語も違う方たちをつなげる大きなコミュニティになったこと。それは、同行期間の思い出の中でもとても心に残る経験の一つです。 その後のこと そして、その交流会は今も続いていて、登録者は1000人を超えました。当時の私には想像できなかった広がりです。 「駐妻って何をしているの?」と問われたら、私はこう言います。「現地でしかできない経験を、思いっきり楽しんでいました!」と。

🌍無敵の駐妻LIFE

「キャリアが止まる」ではなくて、「人生がひらく」時間だった。 はじめまして、Akikoです。このブログでは「無敵の駐妻LIFE」と題して、世界を舞台に“キャリアブレイクを楽しむ”女性たちのリアルな姿をお届けしていきます。 まずは、私自身のことを少しだけ。 ✈️「一時的なバケーション。だったら、全力で楽しもう」 夫の海外駐在が決まったとき、私は7年続けた仕事を手放すことになりました。アメリカ・カナダでの留学や就職を経て、日本でも働き続けてきた中でのひと区切り。 夫の駐在が決まったのは、私自身が前職で昇格間近のタイミングでもあり、「いま辞めるのか…」と一瞬よぎったのは確かです。 でも、“いつかまた海外に住みたい”という思いや、“海外での経験は子どもたちにも絶対プラスになる”という信念、そして何より“家族みんなで一緒にいたい”という気持ちから、夫の駐在に同行することを決めました。 決心した後に湧いてきた気持ちは、「こんなふうにオフィシャルに、人生で仕事を休める機会なんて他にない。」「だったら、全力で楽しもう!」 そうして私は、中国・広州へ飛び立ちました。 “駐妻”だからこそできた挑戦 広州での生活が始まると、私が思っていた以上に毎日が新鮮で、発見の連続でした。 もちろん最初は戸惑いもありました。カフェでコーヒーを買うことすらひと苦労、子どもの幼稚園の手続き、先生やクラスメイトとの中国語でのやり取り…。 でも、そうしたひとつひとつの出来事が、私を自然と“行動”に向かわせてくれました。 🤝【語学交流イベント】 中国での生活が始まり、中国語の勉強をはじめて2か月ほどでHSK4級に合格。ですが、そこで気づいたのは、「試験には合格しても、まったく話せない」という現実でした。 また、中国で出会った友人たちとの会話も思うようにできず、もどかしさを感じはじめたのもこの頃。会話力を上げるには、とにかく“話す場”が必要! そう思い、カフェでの語学交流会をスタート。最初は数人に声をかけて始めた小さな集まりが、少しずつ広まり、2年間でなんと100回以上の開催に。 中国人や日本人だけでなく、さまざまなバックグラウンドを持つ方々が集い、国籍も世代も越えた、交流と学びの場となりました。現在は帰国後も、愛知県で月1回の語学交流会を続けています。 🏫【幼稚園PTAにもチャレンジ】 中国では、子どもたちが通う現地幼稚園のPTA活動にも参加しました。 最初は言葉の壁に緊張もありましたが、「しっかりやり遂げたい」という気持ちで一歩ずつ乗り越えていくうちに、いつしか先生や子供と同じクラスの親御さんからも信頼される一員として活動できるようになっていました。 💼【キャリア支援も、自分らしく】 また、リクルーターとしての経験を活かして、現地でできた友人たちに向けた無料のキャリア相談や講座、営業スキルセミナーも開催。 「働けないから、何もできない」ではなく、自分の持っている経験や知識を活かして、“今できること”に挑戦する。 そんな気持ちで、新しい活動をいくつも始めていきました。 🌱“キャリア”って、生き方。 広州でのこの経験は、私に「キャリア=仕事」ではなく、「キャリア=生き方」という価値観をくれました。 仕事を一時的に離れても、学び、出会い、挑戦し、誰かの力になれる日々は、自分でつくることができる。 だから私は、「駐妻=キャリアブレイク=キャリアの終わり」ではない、ということを、これからも伝えていきたいと思っています。