【後編】キャリアを手放して見つけた“今日を生きる力” ―家族の介護と不登校が教えてくれたこと〈Career Break Diary vol.4 新井里美さん〉

家族の現実に向き合い今日1日を積み重ねて“明日”に繋げていく 前編では、アメリカで長く過ごされた後、日本へ帰国され、新たな環境での再スタートされた里美さんの歩みをお話しいただきました。 【前編】キャリアを手放して見つけた“今日を生きる力” ―家族の介護と不登校が教えてくれたこと〈Career Break Diary vol.4 新井里美さん〉 後編では、ご家族の変化とともにキャリアの歩みを止めた里美さんが、どのような思いを抱き、日々を過ごされているのかを伺います。 介護、不登校という家族の大きな出来事とご自身の新しいお仕事のことが重なって、心が追い付かない場面もあったのではないでしょうか。里美さんのお仕事はどうされていましたか。 9月に父が倒れたときは、入院や手術の手配などで、一ヶ月程休みを取ることを会社に了承してもらいました。この頃はまだコロナ禍だったのでほとんどリモート勤務で、年末には仕事にも戻れていました。新しいポジションには12月1日付けで就いたのですが、本来なら「頑張ろう」というエネルギーが必要な時期なのに、私はもう本当に疲弊していて。年末年始で少し休んだり勉強をしたりしましたが、1月は頑張ったんですけど、2月の最初にもう精神的にどうしようもなくなってしまいました。父のこと、娘のこと、新しいポジションのことが重なって眠れなくなって。結局、2月の最初に「休職します」と伝えて、そこからしばらく休んだあと、職場に戻ることはありませんでした。 その後お二人目のお子さんも学校へ行けなくなったとお聞きしています。 最初は、上の子が不登校になっても、下の子は一年半くらい普通に学校に通って頑張っていたんです。でも、同じく三年生の秋に不登校になって、お姉ちゃんとほとんど同じタイミングでした。下の子のときは、不思議と抵抗なく受け入れられましたね。むしろ、「これまで本当に頑張って学校に行っていたね」、「ゆっくり休んでいいからね」と素直に伝えることができました。 始めは、上のお子さんが外出できないほどだったのでしょうか。 そうなんです。最初の一年半は、家から物理的に一歩も出られない“ひきこもり”の状態でした。でも、ある日動悸がひどくなって、「救急車を呼んで」と本人が言ったことがありました。結局は何もなかったのですが、そのような非常時に一度外に出られたことで、少し自信がついて少しずつ外へ出られるようになりました。 少しずつ状況が変わったのですね。それからお子さんは学校に行くときもありますか。 たまに行くんですよ。遊びに行くだけなんですけど。ちょっと外に散歩に出てみたり、コンビニに行ってみたり、そういうことが少しずつできるようになりました。不安だけど嬉しいですね。無理はしてほしくないけれど、少しずつ外の世界でも、楽しい思い出や体験をしてもらえたらと思っています。 お子さんが学校に行かなくなってから今まで里美さんの心の変化はありましたか。 最初は、「なんで私にこんなことが起こるの?」という気持ちでした。ひどい親だと思いますが、娘の不登校は自分のキャリアにとっての障害としか思えませんでした。「不登校は一時的なものに違いない」とか、自分なりに意味づけをしたり、状況をコントロールしたりしようと必死になっていました。でも、いま振り返ると、やっぱり受け入れることからしか始まらないとすごく感じます。前の私だったら許せないようなことが今は山ほどあるんだけれど、「ダメだったらもう仕方ない」「あとは自分で気づいてもらうしかない」そんな境地にたどり着いた感覚がありますね。 葛藤やお子さんへの思いを経ての変化があったのですね。里美さんは、今はお仕事をされていますか。 結局、「フルタイムは無理だな」というところにたどり着きました。また、かねてから言語を使ったコミュニケーションの分野を極めたい気持ちもあったので、資格を取得して日本語教師になりました。非常勤という働き方なら、今の自分の状況にも合うんじゃないかと思ったんです。今は、単発で完結するような、小回りの利く仕事がいいんですよね。継続的に大きなステークホルダーに影響を与えるような“壮大な仕事”ではなく“一つの単位で終わる仕事”をしたいと。日本語教師は、一クラスという単位で完結できます。今は日本語学校で留学生向けの3時間の対面のクラスを週二コマ、企業の就業者向けのオンラインのクラスを週六コマ受け持っています。 今の働き方をどのように感じていますか。 今の週20時間くらいがちょうどいいですね。子どもが「今日学校に行きたい」と急に言い出したときに対応しなければならないこともあります。もっと時間の自由度を得るという意味では、得意な英語を活かせる翻訳者も向いているのかもしれないと思い、日本語教師とフリーランス翻訳者の二刀流のポートフォリオキャリアを描いた時期もあったのですが、これがなかなかうまくいかず。今では無理に自分のスキルのマネタイズをしようとしなくても、シンプルに自分に向いている方、そしてご縁のある方に方向転換すればいいや、とゆるく考えています。 いずれにしてもあまり無理のない範囲で働くことが、今の自分にとってとても大事なキーワードです。大きな社会的インパクトじゃなくていいんです。小さくても、周りの人の役に立って、その対価としてお金をいただけるなら、それが一番心地いい。それと、将来的には、不登校のご家族の気持ちを軽くしたり、これまでの“当たり前”にとらわれてきた価値観から解放されるお手伝いをしたり、そういうことを実現できる仕事や活動をボランティアでもいいので、何らかの形でしていけたらいいな、というすごく大きくて曖昧なビジョンも持っています。私がここ数年鍛えられている“当たり前からの離脱力”というものは、もしかしたら誰かを悩みから解放してあげられるヒントになるかもしれないので。 私も子育てをしながら個人で働いていますが、今ある力で「小さな社会的インパクト」を持てることは自分を保つうえでとても大事だと感じます。里美さんは、会社員に戻りたい気持ちはありますか。 答えとしては“グレー”です。安定も魅力的ですし、自分のスキルに見合った待遇は承認欲求を満たしてくれるし、嬉しくないはずありません。でも、結局のところ自分にとって一番身近で大事で、そして社会的責任のある組織は、“企業”よりも“家族”なんですよね。これは美談ではなくて、ノンフィクションの現実です。会社で私が倒れても代わりがききますが、家族は家族同士で助け合うものですよね。今までそんなことに気づかなかったのは、両親が支えてきてくれたからです。これからは私が支える番です。家族が幸せで倒れないこと、持続可能であることが何より大事だと感じています。当たり前のことなんだけれど、それを保って運営していくのが「こんなに大変なんだ」と、ここ数年ですごく実感しました。 それと、“キャリア”という言葉は、結局“人を人材として認知する”考え方だと思うんです。企業の売上や成長のために、どれだけ価値を提供できるか、そういう視点で語られるのがキャリアですよね。でも私は“人材”である前に、一人の“人間”で、私の人間としての一番の責任はやっぱり家族のために生きる、ということだと思うんです。これまでの自分にとっての“成長”はキャリアアップや昇進、昇給だったけれど、今は“今あるものを大切にすること”とか、“命があることをありがたく思うこと”とか、次元の違うところに強制的に連れてこられたような感覚です。大げさに聞こえるかもしれませんが、まさに魂の修練みたいな感じです(笑)。だから今は、会社に戻るイメージが全く持てないんです。戻れないし、自分の存在がその領域にrelevance(関連性)がないようにも感じています。 これまでたくさんの思いの変化があったと思いますが、里美さんが会社を辞めて得たものは何だとお考えですか。 「すべてが直線的に右肩上がりに進むわけではない」ということを強く感じます。人は誰しも「常に成長し続けなければいけない」という成長神話や「成功しなければ意味がない」という成果主義の呪縛に囚われていると思うのですが、人間はビジネスじゃない。実際は、人間って社会的な存在で、自分の気持ちとは裏腹に家族や社会の中でいろいろなことが起きるじゃないですか。過去のデータや戦略的な思考も役に立たないことだらけ。その時の周りの環境によってただただ微調整を続けていくわけですよね。その微調整する能力、いわばキャリブレーション力が今、試されていると思うんです。そして、振り返ったときには、その選択を自分で“正解にしていく”しかない。たとえ一度は「間違えた」と思ったとしても。 だからこそ、今日を元気に生きること、未来は“明日の連続”でしかないという短期的な生き方に立ち返ることができた。生産性とは無縁なVUCAな毎日を、子供達と共に一歩ずつ、その日にベストな方法でご機嫌に過ごしていくことの尊さに気づきました。仕事やキャリア、会社という箱からいったん外に出されたことで、俯瞰して人生を見る力を養う機会をもらえた気がします。“ブレイク”というよりはこの“リフレクション(内省)の時間”が、まさにそれを与えてくれたと思っています。 里美さんのお言葉から、今という時間を大切に生きることの重みを、改めて感じます。 インタビューを終えて お話を伺っていて印象的だったのは、里美さんが強い意思を持って新しい環境やキャリアに挑戦し続けてきたことでした。だからこそ、立ち止まらざるを得なかったときの戸惑いは、きっと大きかったことと思います。はじめは複雑な気持ちに揺さぶられながらも、家族を支える中で、ご自身が今一番大切に思うものに気づかれたのだと伝わってきました。 そして、里美さんが行き着いた境地は、遠い未来の計画よりも、今日の家族を支える行動を一つずつ積み重ねていくこと。その姿勢に、私自身も「日々の暮らしの中で、もっと家族のことに向き合っていきたい」「今あるものに感謝したい」――そんな思いが自然と湧いてきました。里美さんが話してくださった“今日を生きる”という感覚をいつも胸にしまっておきたいと思います。 里美さん、心に残るお話しをお聞かせいただき、本当にありがとうございました。

【前編】キャリアを離れて見つけた“今日を生きる力” ―家族の介護・不登校が教えてくれたこと〈Career Break Diary vol.4 新井里美さん〉

母のがんを機にアメリカから帰国。日本の家族との再スタート 「キャリアブレイクダイアリー」では、キャリアの途中で立ち止まり、新しい人生を歩みだした人たちの声をお届けします。そして今回、お話を伺ったのは、新井里美さんです。(以下、里美さん) 里美さんは日本の高校を卒業後、単身でアメリカへ進学留学の道を選びました。UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)のコミュニケーション学部を卒業された後、NHKロサンゼルス支局で勤務し、リサーチや現場のコーディネート、インタビューなどを通じ、日本からの駐在記者をサポートしながらニュース制作に従事されました。その後は、現地の和食の調理学校、日本酒を取り扱う商社にて営業活動等に携わり、32歳のとき、日本で暮らすお母様のがんを機に帰国。日本では、外資系の酒類メーカー、家具メーカー、IT企業でマーケティング及び広報のキャリアを重ねました。日本に帰国して四年後に結婚し、私生活では小学生の二児の母。2022年にお父様の介護とお子様の不登校が重なり、休職を経て会社を退職されました。現在は、一緒に住むお子様に寄り添いながら、無理のないペースで非常勤の日本語教師として働いています。 ご家族のことを教えてください。 夫はフリーランスのテレビカメラマンで、週末だけ帰ってくるような生活で、子供が生まれた頃からほとんどワンオペです。子育てをしながらもキャリアを継続したくて、なんとか両立を試みてやってきたのですが、今は会社を辞めています。小学生の娘が2人います。2人とも学校に行っておらず、父は数年前に倒れてから介護が必要な状況です。仕事と育児はなんとか両立してこられましたが、加えて不登校問題と父の介護が同時に被さってきた時は、もうお手上げという感じでした。 アメリカの大学に進学されたと聞きましたが、どのような経緯だったのでしょうか。 中学の頃から英語学習が好きで、アメリカの映画や音楽などのポップカルチャーにも興味を持つようになりました。高校2年生のときには、両親に頼んでホームステイに行かせてもらいました。実際に行ってみると、思っていた以上に英語が通じて、それがすごく嬉しくて。そこでUCLAに観光に行ったのですが、「ここで学びたい」と思い、アメリカの大学進学を決めました。当時はジャーナリストに憧れていて、最初は郊外の大学でジャーナリズムを専攻してから、2年後にUCLAのコミュニケーション学部へ編入しました。 大学では何を専攻されていたのですか。 UCLAでは、コミュニケーション学部でマスメディア論全般や言論の自由の重要性とそれを保護する法令についてなどを勉強しました。私たちが日々消費するいかなるメディアにも必ずバイアスがあることを学び、視界が開けました。ロサンゼルスにたまたまNHKの支局があったので、大学生の時にインターンもしていたんですよ。 大学を卒業されてから、アメリカでどのようなキャリアを歩まれたのですか。 最初は小さな翻訳会社に勤めました。その後インターンとしてお世話になったNHKに「仕事があるよ」と声をかけていただいたんです。それでNHKロサンゼルス支局で、事務作業から始めてリサーチ、取材、駐在支局長のアシスタント業務などを担当しました。ちょうど大統領選挙や同時多発テロがあり、アメリカ社会が大きく動いていた時代でした。ただ、広範囲のニュース取材を続けるうちに、自分の専門性ってなんだろうと、少しずつ疑問に感じるようになりました。そこで、ロサンゼルスで人脈を広げるうちに、ディナーパーティなどで体験したお酒を交えたコミュニケーションやホスピタリティの分野に興味を持つようになり、日本料理の調理学校に転職し、日本酒の製造工程や文化についての講師を務めたり、レストラン向けに日本酒のテイスティングやメニューのコンサルティングなどを担当したりしました。日本酒の香りをワインのテイスティングノートの語彙を駆使して言語化するのが楽しく夢中になっていました。その後、日本酒を扱う商社から声をかけていただき、西海岸担当の営業としても働きました。 まさにアメリカが大きく動いていた時期に、濃密な経験をされていたのですね。その後日本に帰国されたのは、どのような理由からだったのでしょうか? 母が末期がんになったことがきっかけです。妹も当時ロサンゼルスにいて、「どちらかが帰ろう」と話し合いました。ちょうどその頃、私の就労ビザが抽選で落ちてしまったことも重なり、帰国を決めました。振り返ると、それが家族のために自分の選択を諦めた最初の出来事だったのかもしれません。母のことはショックで、上司にも相談して仕事量を減らしてらうなどしていましたが、当時の仕事には身が入らなくなっていきました。 お母様のことやビザのことで気持ちが大きく動く日々だったことと思います。日本に帰ることへの抵抗はありませんでしたか。 私はアメリカに14年ほど住んでいて、気持ちの上ではほとんどアメリカ人のようになっていました。でも、ビザが取れなかったことで、「結局、自分は外国人だったんだ、何を勘違いしていたのだろう」と、失望しました。ただ、日本に戻ったことで、母と過ごせる時間を持てたのはよかったと思います。母とは長女が1歳になる頃まで一緒に思い出をつくることができました。 日本でお母様と過ごせたのは大きかったですね。日本に戻ってからの生活とお仕事について教えてください。 当時は32歳で、「転職は難しいかもしれない」と心配していたのですが、いろんなエージェントに連絡して、手当たり次第応募してみたんです。ありがたいことに一社から内定をいただいて、日本で初めて就職したのが、フランスの酒類メーカー、ペルノ・リカール・ジャパンでした。マーケティング部に入社させていただき、そこから日本でのキャリアが始まりました。 日本の文化に慣れるのは大変でしたか? 大変でしたね。母のこともあったし、ロサンゼルスでは車生活だったのですが、実家から電車で通っていたので、通勤が辛くて辛くて。ただ、新しい仲間のおかげで職場の文化には順応できて同僚と飲みに行ったりして充実していて、そこはすごくありがたかったですね。でも、お酒の会社なので、営業の方と深夜までお客様を訪ねて情報収集をしたりする日も多々ありました。華やかな世界で楽しかったですが、大変な時もありました。妊娠する直前まで、そんな生活が続いていましたね。 ご結婚はいつされたのですか。 日本に帰国して四年後、ロサンゼルスのNHKでいつもお世話になっていたカメラマンと結婚しました。仕事を一緒にしていた頃は、周りの信頼が厚い業界の大先輩という感じで、まさかこんなふうになるとは想像もしなかったのですが、夫は私より一足先に帰国していて、同じ帰国組として共通の思い出を語りあったり、帰国後の悩みを相談できたりする存在になったのです。ペルノ・リカールに勤めている間に結婚し、そこで2回育休を取得させていただきました。仕事柄出張ばかりの夫ですが、家にいるときは家事と育児を私より完璧にこなしてくれる、頼れる存在です。 出産の前後で、仕事復帰についてはどのように考えていましたか。 育休中に仕事社会に置いていかれるような孤独感もあり、「絶対に戻る」と思っていました。働くことがすごく好きだったし、日本に戻ってやっと自分の力で適応できたという自負もあって、積み上げてきたものがすごく大きかったし、そのまま積み上げ続けていくことが当然だと感じていたんです。 復職後イケアに転職されたと伺っています。 ちょうど上の子が小学校に入るタイミングで、ペルノ・リカールにも長く勤めていましたし、「もっとキャリアアップできるのでは」という思いが出てきました。ペルノ・リカールではマーケティングを経験した後に、コーポレート・コミュニケーションという社内と社外の両方の広報を担当していて、企業ブランディングと広報の仕事自体に興味を持ち始めていた頃でもありました。そこで転職活動にチャレンジし、ご縁があってイケア・ジャパンに広報担当として入社した、という流れです。ちょうど都心店舗のオープンが続いた歴史的なタイミングにお仕事をさせていただき、振り返ると自分のキャリア史上一番のハイライトだったと思います。 その後、セールスフォースへ移られたのは、どのような経緯だったのでしょうか。 セールスフォースは、実はペルノ・リカール時代にブランド担当として一緒に働いていた同僚が先に転職していて、その方から声をかけてもらったのがきっかけでした。最初は日本と韓国のエンプロイー・エンゲージメント マネージャー(社内広報)として入社し、企業カルチャーを醸成したり、社員のロイヤルティを高めていくための社内コミュニケーションの仕事をしました。ただ、1年半ほど経った頃に、やはりメディア対応などの社外広報への興味が再燃し、社内公募に応募したところ合格して、異動が決まりました。ところが、ちょうどそのタイミングでいろいろなことが重なりました。異動が決まった直後、2022年9月に父が倒れてしまい、さらに翌月、長女が学校へ行けなくなりました。長女はそれから3年以上経った今でも不登校です。私にとっては、大きな転機の秋でした。 前編を振り返って 自分の力で道を切り開いて、アメリカでキャリアを築いてきた里美さん。 その一方で、日本にいる家族の存在は、ずっと心の奥にあり続けていました。 お母様のがんをきっかけに、長く暮らしたアメリカを離れて帰国を決意した選択には、キャリア以上に「家族を大切にしたい」という里美さんの揺るぎない思いが表れていると感じました。 帰国後は新しい職場での挑戦、結婚、出産、子育てと、環境が大きく変わる中でも、懸命に働き続けてこられました。しかし、そんな日々の中で訪れた思いがけない家族の変化が、里美さんの生活や価値観を大きく変えることになります。 後編では、その出来事を経て会社を退職した里美さんが、そこからどのような思いにたどり着いたのか、お話を伺っていきます。

【後編】全ては人との出会いから。挑戦を重ねながら歩む、母としての人生〈Career Break Diary vol.3 増田陽子さん〉

「このために生きてきた」出会えた命とともに 今を最大限に生きる 前編では、人との出会いを重ねながら新しい世界へ挑戦してこられた、陽子さんのキャリアの歩みについてお話しいただきました。 【前編】全ては人との出会いから。挑戦を重ねながら歩む、母としての人生〈Career Break Diary vol.3 増田陽子さん〉 後編では、40代での結婚・妊娠・出産という人生の大きな転機を迎えた陽子さんが、母となった今、どのように仕事や家族、そして自分自身と向き合っているのかを伺います。 ―転職後すぐに妊娠がわかったのですね。陽子さんは、いつご結婚されたのですか。 陽子さん:結婚したのはコカ・コーラにいた頃で40歳を過ぎてからです。普通なら、もう妊娠を諦める年齢かもしれませんよね。だから最初からすぐにクリニックに通うことにしました。そして、当然なのですがこの年齢での妊活は本当に大変で……更にかなりのプレッシャーがある中でのハードワークだったので通院も難しかったです。ただコロナでリモートワークになったことで、睡眠も取れて、通勤のストレスもなくなって、通院も楽になったんですよ。 ―それは本当にタイミングがよかったですね。コロナによって人生が変わった人はきっと多いでしょうね。 陽子さん:本当に。そうやって数年で環境が整っていったからこそ、妊娠できたのかなと思います。とはいえ、その頃は心の中ではもう半分くらいは諦めているんです。頭の中では子供が持てなかった人生もちょっと描きつつという感じでした。 ―妊娠されてから、働き方に変化はありましたか。 陽子さん:Spotifyの上司がオーストラリア在住のオーストラリア人でした。男性だったのですが、彼自身も2歳児のパパだったため子ども中心の生活にとても理解のある方だったんです。「オフィスには無理に行かなくても良いよ。僕もほぼフルリモートだから」と言っていただけて、本当に恵まれた環境でした。しかも、私は悪阻が全くなかったんですよ。そのおかげもあって、出産予定の2~3週間前まで、ギリギリまで働きました。 ―ご出産後、体調はいかがでしたか。 陽子さん:実は、出産時に出血が多く、病室で倒れてしまったんです。やはり年齢を重ねていくうえでのリスクは多少あるかもしれません。でも、それも覚悟のうえでした。「この子のために私は生きてきたんだ!」と思えるくらい、どうしても欲しかった子どもだったので。 ―妊娠を経て出産すると、命の重みと母としての使命を実感しますよね。陽子さんは出産後、復職はされたのでしょうか。 陽子さん:実は、私が復職する予定の2ヶ月前に、会社がグローバル規模の大きなリオーガナイゼーション(組織再編)をしまして。それで、私の所属していた部署ごとなくなってしまったんですよ。ちょうど保育園の申し込みなど復職に向けた準備をしていた時期でしたが、子どもと過ごす時間が惜しく、「私フルタイムで戻りたいのかな」と自問自答しているところだったので、最終的に私にとっては良かった結果でした。 ―結局、保育園には入らなかったのですね。復職をする前、保育園を利用せず会社を辞める選択肢は考えましたか。 陽子さん:葛藤はありましたが、環境が良かったので退職は考えなかったです。それと、日本市場で事業を拡大していくためのプランだけ立てて産休に入ってしまったので、実行に移せていなかったことへのモヤモヤがあったんです。 ―会社に戻ることはなくなった中で、お子さんと過ごす時間をどのように感じていますか。 陽子さん:子どもって小学校高学年や中学生になると、きっと友達と遊ぶ時間や部活動などが中心の生活になっていきますよね。私も実際そうでしたし。なので、「子どもと過ごすこの時間は日々どんどん減っていっているんだ」と思って今は1日1日を大切に過ごしています。しかも、私が子どもを産んだのが45歳なので、30代前半で出産した人と比べると、子どもと一緒にいられる時間がかなり少ないんですよ。なので、一緒にいる時間を1秒でも多く大切にしたいと考えています。 ―陽子さんはお子さんがいらっしゃる現在もご自身の会社のお仕事を続けられていると伺いました。出産後、お仕事は徐々に再開されたのですか。 陽子さん:そうですね、あえて「これから産休に入ります」とは、自分の仕事関係の方には特に伝えていませんでした。もしご依頼があって、自分のタイミングでお引き受けできそうであればそのタイミングで再開しよう、というスタンスでした。出産後最初にお話しをいただいたのは、以前からずっとお仕事をいただいていた気心の知れたクライアントの方からで、通訳やイベント関連のお仕事でした。 ―お子さんは2歳ですよね。現在はどのような働き方をされていますか。 陽子さん:今は区の制度の一時預かりを毎週2回(最大回数)利用しています。利用料は1時間500円で我が家は1日7時間。実は夫も自営業で水・木が休みなので、その2日は夫とともに子どもと過ごしています。また、土日は母が来てくれることもあり、家族のサポートの中で自分に与えられた時間で、できることを最大限やっていく―今はそういうスタンスです。プロジェクトによっては、寝かしつけが終わってから夜中まで仕事をする期間もあります。 ―海外に出張に行かれることもありますか。 陽子さん:はい。出産後、昨年4月には約1週間、今年4月には2回目の海外出張で、ミラノサローネに10日間も行ってきました。子どもは夫に託して。母のサポートもお願いしながら。来年はどうなるだろう。男の子ということもあって、最近のママっ子っぷりを見ていると少し心配な部分もありますね。 ―今後、お仕事や子育てについて、どのような未来を描いていらっしゃいますか。 陽子さん:仕事している母親がすごく楽しそうにしているという姿を見せられたらなと思っています。仕事で「ママがいなくなっちゃって嫌だ」と思ってほしくなくて。 「なんかママはお仕事している時、楽しそうで輝いているな」と思ってほしいですね。本当に好きでしていることですし、私も主人も会社員ではないので、自由に動ける部分もあるんですよね。 ―素敵ですね。収入面のことをお尋ねしますが、もっと稼ぎたいとお考えですか?それとも、今は不安がない状況なのでしょうか。 陽子さん:不安は常にあります。子どもはまだまだ小さいので、これからお金がかかるじゃないですか。多くのご家庭では、そういう時期は30代や40代で迎えると思うんですけど、私たちの場合はその時期がずれていて、世間一般ではもう引退が見えてくるような年齢なんですよね。でも、幸いなことに私たちは夫婦ともに自営業なので、「70歳を過ぎてもまだまだ働きたい」と思えているんです。生涯現役で好きな仕事を夫婦で続けていきたいと考えています。 ―いずれ会社員に戻るという選択肢もお考えですか。 陽子さん:はい。ハイブリッド勤務や、週に数回の出勤でよいという条件の職場があれば、戻ってもいいかなとも思っています。ただ、私はもともとフリーランスだったこともあって、「会社に所属するのが前提で働く」という感覚があまりないんです。そういう意味では、子育て中の方も会社員という形に捉われすぎず、もっと柔軟に考えてもいいんじゃないかなと思います。キャリアブレイク中でも、例えば英語の勉強や、時間管理・タスク管理など、何かひとつでもできることを隙間時間に少しずつやっておけば、それは「完全なブレイク」にはならないと思うんです。そうしていると、時間ができたときには、仕事に戻りやすくなる気がします。何かに意識を向けて、常に少しずつでも動いていれば、それが意外と積み上がっていく―そんな感覚でいます。 ―陽子さんは、これまで本当に充実したご経験を重ねられていると感じます。陽子さんはご自身の人生やキャリア、子どもを授かったタイミングなどを振り返ってみて、どのように思われますか? 陽子さん:子どもはずっと欲しかったんですが、結局、その人その人にとっての「いいタイミング」があると思うんですよね。私も35歳のときにすごく子どもが欲しいと思っていたけれど、そのときに授かっていても、今ほど人生が充実していたかどうかはわかりません。「自分の人生」という単位で見たときには、本当に「ベストなタイミングでベストな相手と子どもを持つことができた」と思っているんです。なので、周りの多くの人が「早く職場復帰しなきゃ」と言っている中でも、私は焦らず子育てができています。それと、会社という一つの価値観やコミュニティだけで生きるのではなく、色々な経験をすることが、これからの時代は大事になると感じていて。結局、プランを立てても子どもを持つことや結婚は、全て人との出会いで決まっていく。もちろん計画は大事だけれど、「この方向に行きたい」とゴールだけ想い続けていれば、自然とそこに向かって進んでいけるんだと思っています。私の人生がそうだったように。 ―人との出会いと自分の強い思い次第ですよね。まさに陽子さんの歩まれた人生そのものだと感じます。 インタビューを終えて 陽子さんの言葉には、力強さと信念、そして、しなやかさを感じました。豊富なキャリアを歩んでこられた中でも、「大切なのは家族」「この子のために生きてきた」という言葉から、人生の節目ごとに家族を想う気持ちが強く伝わってきました。 また、ご自身の状況を「恵まれている」「結果的に良かった」と語られていたのがとても印象的でした。その姿と言葉に私自身、大きな勇気をもらいました。 会社員というかたちではないが、人生の中で自分が歩んできた道を、子どもが産まれてからも一緒に歩んでいく——それはとてもシンプルで、一貫性のある生き方だと感じます。そして、「子どもとの時間は減っていく一方」という言葉が心に残りました。私自身も0歳の娘との時間とこの命をより一層尊く感じたインタビューでした。 陽子さん、心に残るお話しを本当にありがとうございました。

【前編】全ては人との出会いから。挑戦を重ねながら歩む、母としての人生〈Career Break Diary vol.3 増田陽子さん〉

イタリアに移住し 人生で最も大切なのは 日本の家族だと気づいた 「キャリアブレイクダイアリー」では、キャリアの途中で立ち止まり、自分らしい選択をした人たちの声をお届けします。そして今回、お話を伺ったのは、増田陽子さんです。(以下、陽子さん) 陽子さんは15歳で初めて渡英し、高校1年時に1年間のイギリス留学を経験。大学時代は映画制作の現場に深く関わりつつ、ご実家が経営する会社の手伝いでクラシックカーのイベントにも携わります。これをきっかけにイタリア語を学び、現地で徐々にコーディネイターの業務をスタートし、2006年に活動拠点をイタリアへと移しました。2013年に日本へ本帰国後は、自身の会社を立ち上げ、日本の企業向けにミラノのデザインウィークに関連するイベントコーディネイト、その他ファッションショー・ミラノ万博などの現地でのコーディネイト業務を本格的に始動。また、その後は会社員として外資系自動車メーカーにてイベントマーケティング統括、飲料メーカーではオリンピック関連マーケティング業務、音楽ストリーミング企業にて、日本市場のBtoBマーケティング戦略の統括などを担い、幅広い経験と実績を積まれました。2023年、45歳で第一子を出産し、現在は会社員を辞め、ご自身の会社を通じてイタリアと日本を繋ぐ仕事を中心に活動しています。 ―まず、陽子さんのご経歴についてお伺いしたいです。なぜ15歳のときにイギリスに行ったのですか。 陽子さん:小さい頃から両親に「留学する?」となんとなく聞かれていました。ちょうど母の親友がイギリス人と結婚し、私と歳の近かった娘さんが全寮制の学校に通っており、両親も「女子寮なら安心」と快く送り出してくれました。15歳の時に夏休みに1ヶ月間ホームステイを経験し、元々物怖じするタイプではなかったのと、新しい環境に入るのがとても楽しそうだと思い、翌年16歳になったときに1年間全寮制のイギリスの学校に通いました。 ―実際留学されてみていかがでしたか。 陽子さん:日本人は私だけだったので英語を学ぶ環境としては最高でした。マインドセットもかなり変わりました。同い年の子達がとても自立していて、将来について明確なビジョンがある学生が多かった印象です。そこでハッとなって、「自分は何がやりたいんだろう」と考えるようになりました。私は小学生で受験し、大学まである一貫の学校に通っていたので、周りは誰も受験をしない環境でした。それでも、慣れた環境から出てみたいと思うようになり大学受験をすることに繋がりました。 ―日本の大学に通っている間、どのような大学生活を過ごされましたか。 陽子さん:イギリスにいた頃から「将来自分は何がやりたいんだろう」と考えてきて、思考を重ねた結果「私これやりたいかも」と思ったのが映画監督だったんです。当時運動部のマネージャーをしていたのですが、「これは部活をしている時間はないぞ!」と思い、知人を伝って、映画制作の現場にボランティアで働き、映画の世界にどっぷり浸かりました。私は「こっちだ!」と思うと突き進むタイプなんです。ただ、撮影が始まると、一番下っ端の私は現場に1番に入り、全員が帰るまで帰ることができず、1日3時間睡眠がずっと続き、そうなると友達にも家族にも会えません。その生活を続けているうちに、「果たして私はこの生活を続けてでも映画の仕事をしたいのか」と自問自答し、一旦その世界から離れる決断をしました。その流れで、実家の会社を手伝うことになりました。 ―ご実家は会社を経営されていらっしゃるのですね。 陽子さん:はい。当時実家の会社でイタリアのクラシックカーのイベントを主催していました。そのときの仕事の相手がイタリア人で、私が英語でコミュニケーションのサポートをしていたのですが、イタリア人はあまり英語が通じないんです。私は言語を学ぶのが大好きで、大学在学中からちょこちょこイタリア語学校に通っていたのですが、「これは現地に行った方が早く学べる!」と思いたってイタリアに行くことにしました。 ―大学では就職活動はされていなかったのですか。 陽子さん:そうですね。映画監督になりたかったので、もともと就活は自分とは無縁のものと思っていました。 ―周りが就職活動を始めた中、ご自身のお考えを貫けるのがすごいです。イタリアに行かれてからはどのような生活でしたか。 陽子さん:イタリアに行ったときに、日本でしていた色々なことが繋がっていったのが面白かったんです。大学時代に映画制作の現場でお世話になった方々が、偶然私の留学先であるフィレンツェ・ミラノでその前年度に映画の撮影をしていたんですよ。その現場で通訳兼コーディネイターをしていた方を紹介してもらい、留学してある程度イタリア語が話せるようになってから、数年後に日本のテレビ撮影のコーディネートアシスタントをしてくれないかとお話があり、現場にお手伝いに入りました。 ―そこからメディアのお仕事をするようになったのですね。 陽子さん:はい。現地に住んでいるコーディネーターと次々繋がっていき、始めの方はありがたいことにそうして知人からの紹介で仕事を繋いでいくことができました。しばらくして「車関連のイベントの通訳をやらないか」と知人に声をかけてもらって、それをきっかけに博報堂さんとお仕事をすることになりました。蓋を開けてみたら「ミラノサローネ」というデザイン関連のイベント運営のお手伝いだったんです。 ―イタリア、ミラノで開催されているデザインウィークですね。 陽子さん:はい。それまでは学生ビザで日本とイタリアを行ったり来たりしていたのですが、これを機に、30歳になる年にイタリアに移住しました。 ―陽子さんの起業はこのお仕事がきっかけですか。 陽子さん:そうです。2013年に日本に本帰国し、準備段階から長いスパンでミラノサローネに携わることになりました。博報堂さんという大きな会社と仕事をするには、フリーランスだと信用の問題があるので法人を設立しました。これが今の仕事のベースとなっています。 ―イタリアへの移住後、日本に本帰国されたのはなぜですか。 陽子さん:どちらかというとプライベートな理由からです。「一生この国で生きてくのか」と考える機会が折々あり、ちょうどそのタイミングで姪っ子が生まれたんです。当時まだ私は結婚をしておらず子供もいなかったので、姪っ子の成長を近くで見たいと思いました。イタリアでの生活よりも「自分の人生にとってこっちの方が絶対大事だ」と、優先順位がそこでガラッと変わったんですよね。 ―その時おいくつでいらっしゃいましたか? 陽子さん:ちょうど35歳だったんです。女性にとって、30歳、35歳、40歳の節目の歳って自分の人生について考えることって結構ありますよね。私は生まれも育ちも日本、家族も友達も日本にいる。それとイタリア人は元々家族をすごく大事にする国民なんです。そういう人たちを見ていて、「人生で大切なのは家族だな」とシンプルな回答に行き着きました。 ―日本に戻られてからBMWに就職されていますが、どのような経緯があったのでしょうか? 陽子さん:そうそう、次の節目は40歳で「あれ?私、今まで会社員を一度もやったことない」と気づいたんです。博報堂さんとのお仕事もスタートしてからかれこれ7、8年経っていたので、自分の中で挑戦欲のようなものが芽生えてきて。私は、次何か自分が成長したいと思ったときには、それまで経験したことのないことや、自分が見たことのない立場にあえて身を置くことを大切にしています。いわゆるコンフォートゾーンを抜け出す、ということですね。それまでも時折ヘッドハントのお話をいただくことはあったのですが、BMWのお話をいただいた際には、もともと好きなブランドでしたし、車好きでもあるので、ひとまずお話を聞いてみようと思ったんです。面接に行ってみたところ、思いのほかスムーズに話が進み、気づけばトントン拍子でそのまま入社することになりました。 ―陽子さんは会社員になるまで収入面で不安に思われたことはありましたか。 陽子さん:フリーランスの頃のメモを振り返ると、「よくこの状況で不安にならなかったな」と思うこともあります(笑)。ただひたすら目の前の好きなことを選びながら前に突き進んでいたからでしょうか。日本に戻ってからは実家に住んでいたこともあり、博報堂さんのお仕事がミニマムあったので、それでなんとか生活できていました。 ― BMWでのお仕事はどうでしたか。ご自身の会社のお仕事も続けられていたのですか。 陽子さん:全国のあらゆるイベントを統括する部署の責任者をしていました。自分の会社は存続していたのですが、BMWの仕事があまりにも多忙で、当時自分の会社のことを考える余裕はほとんどありませんでした。ただ、やっぱり会社員になるとベースはぐっと上がって、収入面は安定しました。「なるほど。だからみんな会社をなかなか辞めないんだな」と、ちょっと納得したところもあります(笑)。 ―その後はコカ・コーラに入社されていますね。ヘッドハントだったのでしょうか。 陽子さん:はい。いつもそうなのですが、自分が予期していない絶妙なタイミングで誰かが引っ張ってくれることで私の人生は動いていくなと。私は生まれも育ちも東京なので、東京でオリンピックが開催されると決まった時から何かしらの形で絶対関わりたい!!とずっと密かに思っていました。コカ・コーラは、オリンピックの最も歴史あるスポンサー企業のひとつなので、コカ・コーラのオリンピックチームに、しかも立ち上げの初期メンバーに入れるなんて自分にとって大変名誉なことでした。そこでは東京オリンピック・パラリンピックのコカ・コーラのパビリオンを作る責任者を務めていました。 ―コロナ禍で本当に激動の時期でしたよね。大変な思いをされたのではないですか。 陽子さん:本当に、あのときは恐ろしい状況で。これまで経験してきた現場の中でも一番大変だったと思います。世の中がどうなるかわからない中で、ひたすらプランニングをして、変更しての繰り返しでした。しかもそれまでは毎日出社していたのに、「はい、明日からはリモートです」と突然言われて。 ―想像を絶するほどのご状況だったと思います。オリンピックが終わってからは会社に残らず転職されたのですか。 陽子さん:プロジェクト終了後は、会社に残る選択肢も一応ありましたが、自分の中でやり切ったという実感があったんです。そんな中、自分が好きなブランドで、かつ新しいチャレンジができる環境を探していたところに、お声がけいただいたのがSpotifyでした。日本市場のBtoBマーケティングのヘッドとしてのポジションです。それで、妊娠の話になるのですが、入社してすぐ妊娠がわかったんです――― 前編を振り返って 前編では、陽子さんの多彩なキャリアと、人との出会いを大切にしながら進まれてきた人生をたどりました。未知の世界にも臆せず飛び込む行動力と、挑戦を重ねてこられた姿勢からは、強い熱意が伝わってきました。そして、日本にいる家族への想いから帰国を決断されたことも、心に残るエピソードでした。 後編では、40代での結婚・妊娠・出産という大きな転機を迎えた陽子さんが抱いた想い、そして子育てと仕事のあり方をどのように捉えながら暮らしているのかをお話しいただきます。

【後編】母としての時間を優先し、大手企業を退職。そして起業の道へ〈Career Break Diary vol.2 大戸菜野さん〉

「働き方は、選ぶだけじゃなく、つくることもできる」 前編では、菜野さんがキャリアブレイクを経て起業に至るまでのお話を伺いました。後編では、現在の事業の内容や子どもと過ごす時間、そしてこれまでの選択を振り返っての思いを語っていただきます。 【前編】母としての時間を優先し、大手企業を退職。そして起業の道へ〈Career Break Diary vol.2 大戸菜野さん〉 ―菜野さんは具体的にどのようなお仕事をしているのですか。 菜野さん:もともとマーケティング、商品企画、営業をやっていたので、販売の現場から商品戦略を立てるということを一気通貫のコンサルティングをしていましたが、最近はAIを使った教育システムの開発もスタートしました。 ―コンサルティングの集客はどのようにしていたのですか。 菜野さん:多くはありがたいことに知人の紹介です。以前一緒に働いていた方が務めている会社がクライアントになることが多いです。起業した理由は、大手の会社と仕事するのに、フリーだと取引口座が開設できない、信用が足りないなどの問題があるからです。 ―一緒に働いている専業主婦の仲間が数名いらっしゃると聞きました。 菜野さん:はい。います。業務委託だったり仕事によってはパート契約だったりします。子育て中の方がメインですが、なかには地方移住して、兼業農家をしながらホワイトカラーワークを間に挟む働き方をしています。私の手だけでは足りない時には、手伝ってもらっています。 ―私自身も個人で動ける仲間と連携して仕事をしているので、こうした働き方ができる時代だと実感します。 菜野さん:そう思うと、次の働き方で大切なのは商店同士のネットワークですね。似た状況の人とか、フルタイムで働けない人が繋がって働けると強いですね。 ―確かにそうですね。菜野さんは会社員に復帰する予定はありますか。 菜野さん:このまま、会社を経営していくのが理想ですし、そうしていきたいと思っています。ただ、日本の言い伝えのひとつで「子どもの年齢が「つ」で数えられるうちは、親は目と手を離してはいけないというのがあるんですね。私の子どもが今8歳で、10歳になったら「とお」なので、目は離さないけど手は離してもいいと。これを区切りに考えていて、家にいて子どもから目を離さないようにしつつ、もう少し仕事をしたいと考えています。子どもを育ててわかった色々な社会課題もあるので、今後はAIを使った教育システムの開発に軸足を移していけたらと考えています。 ―お子さんの成長に合わせて働き方を変えるのですね。菜野さんはご自身のこれまでの決断を振り返ってどう感じていますか。よかったと思うことや、逆に後悔したことはあるでしょうか。 菜野さん:シンシアさんもよく言っていますが、こうしてよかったかどうかというのは優先順位がどうなっているかということだと思います。優先順位が決められれば、それに沿って進んでいけばいいだけ。私は全部が美味しいということはないと思っています。そのときに取りたい方を取って、取れない方があっても、そのことに悩むことはないですね。失うものは縁がないのでしょうがない。 ―働き方や生き方の選択肢が多い今の時代だからこそ、「優先順位を決める」という考え方は大切に感じます。 菜野さん:仕事はあとでもできます。仕事に何を求めるかはフェーズによって違うとも思うんです。若いときは、実績や経験値を積みたいと思い、それが収入に変わったりしますよね。でも、子どもが大きくなったあとに2歳の子どもを見たいと思っても戻れない。この間子どもがYouTubeを見たあとだと思うのですが、「人生は一方通行だから。その道は2度と通れないんだよ。」と言ったんです。「本当にその通りだな」と思いました。 ―お子さんの言葉にハッとさせられますね。 菜野さん:私は、「キャリアをどうとらえるか」だと思います。専業主婦を10年していたら、10年会社員でいる人といきなり同じ土俵には立てないのは事実だと思います。でも仕事をするという意味ではあとからでも積み上げることはできるし、自営で細く働いていたら、キャリアは継続できているともいえます。私の場合は、出産前に管理職になっていたから後が続いているのかもしれないと考えることもありますが、それもそのときにできることをやった結果。だから人生後悔していることはないです。みんながやっているからやらなきゃいけないと思った方をとると、やりたかったことが残ってしまうことがあるけど、私は優先順位が明確な方なので、いつもやりたい方しかやっていないです。 ―菜野さんは周りに流されず決断することを大切にされているのですね。 菜野さん:主体性を大事にしています。人間って自分がやりたいと思って内発的動機でやることが一番情熱を持って取り組めるし、子育てもそうです。子どもが毎日やりたいことがあるので、それを「どうぞ時間が許す限り好きなだけやってください。私はサポートします」というスタンスです。 ―素敵ですね。お子さんはいつもどんなことをしているのですか。 菜野さん:習い事はしていないのですが、子どもがやりたいことはたくさんあって、自分が作ったレゴ作品をインスタグラムに投稿したり、水遊びをしたり、ゲームのコンセプトを考えたりしています。それに毎日付き合えるのは私が家にいられるからですね。夏休みはずっとUFOキャッチャーをすると言って、ゲームセンターに通算10時間くらいを費やしましたね。UFOキャッチャーってある種STEM教育みたいなんです。最初に子供と決めた500円の予算でぬいぐるみが取れないと、子供はなんで取れないんだとずっと考えるんです。アームの使い方かな?ぬいぐるみの向きかな?重さかな?って。家でシュミレーションをしてみたりして。習い事でなくてもそうした日常の小さな体験から学ぶことはたくさんあります。子供は、試行錯誤の結果、最終的に夏休み中にぬいぐるみを三個取ることができました。私は取れませんでしたが(笑) ―確かに、学校教育や習い事以外にも、世の中にはたくさんの発見や学びがありますよね。最後にお伺いします。以前、菜野さんがご自身のことを「専業主婦」と表現されていましたが、その肩書きにご自身はしっくりきますか。 菜野さん:「専業主婦です」、「一応仕事もしています」と周りには言っていて、何でしょう。兼業主婦でしょうか。でもフルタイムじゃないと働いていないというのは、変な話ですよね。私は、基本的に生活の土台に子どもと安心して過ごす時間を先に配置して、その上に仕事を配置しています。生活のリズムが、子ども基準。しかも、暮らしと仕事に境界線があまりなく、いつでも子供に対応できるので、気分的に専業主婦なのでしょうね。専業ママかな?ただ、剛田商店と違って閉店時間がないので、仕事の時間が足りないときは子どもが寝た後に対応することになりますが・・ ―「子どもが求めるときに応じられる、そのための時間を自分で作る働き方」ですね。私自身もそうでありたいと感じます。 インタビューを終えて 「人生は一方通行で、同じ道は二度と通れない」―菜野さんのお話を伺い、後悔しない道であれば、今やりたいことを優先してよいのだと気づかされました。目の前の子どもとの時間をもっと大切にしてよいのだと背中を押された気がします。 そして、私自身、自営業として仕事と育児を同時並行にしており、菜野さんのお話には深く共感する点がいくつもありました。「子育ても仕事も別々に考えるから上手くいかない」という視点はとても印象的で、「剛田商店方式」のような働き方は、まさに理想的だと感じます。今の時代のテクノロジーを活かしつつ、昔ながらの働き方をする。会社員という働き方を選ばなかったからこそ実現できる働き方だと感じました。 菜野さん、貴重なお話を本当にありがとうございました。

【前編】母としての時間を優先し、大手企業を退職。そして起業の道へ〈Career Break Diary vol.2 大戸菜野さん〉

子育てと仕事をどう両立させるか 子育てと仕事をどう両立させるか──多くの人が直面するテーマです。 「キャリアブレイクダイアリー」では、キャリアの途中で立ち止まり、自分らしい選択をした人たちの声をお届けします。そして今回、シリーズ最初のインタビューとしてお話を伺ったのは、大戸菜野さんです。(以下、菜野さん) 菜野さんは、日本の大学に在学中、当時スタートアップ期にあった外資系メーカーで契約社員として働きました。卒業後はニューヨークの大学へ編入。帰国後は新卒としてインフラ企業に入社しその後大手自動車メーカーへ転職。国内外の商品企画でキャリアを重ね、管理職としてチームを率いる立場も経験しました。お子さんを出産後、2年間の育休を経て復職しますが、子育てを優先するため退職を決断。その後は専業主婦を経て、お子さんが4歳のときに短時間勤務のパートをスタートし、やがてご自身の会社を立ち上げました。 ―産休・育休に入る前、復職予定についてどのように考えられていたかお聞かせ下さい。 菜野さん:復職時期については実際のところ、産むまでわかりませんでした。生まれてみたらきついと思うかもしれないし、仕事に一刻も早く戻りたいと思うかもしれない。産んでみたら、可愛くて自分がお世話をしたいという気持ちになりました。 ―2年後に復職というのは会社の中では少し遅かった方ですか。 菜野さん:少し遅いどころではなかったです。周りからは復職は3か月や6か月でするのがいいとアドバイスをもらっていたので。管理職であったこともあり、「そんなに休むのか」という雰囲気を感じたこともあります。実際保育園に落ちていたというのもあるのですが。 ―このまま保育園が決まらなければ、退職も見据えていましたか? 菜野さん:入れなかったら認可外のプリスクール。全額自費になってしまいますが、そこで決めるしかないと思いました。実家のサポートを受けながら、家から一番近い認可外のプリスクールに入れて、結局2年ほど利用しました。しょうがないと思いました。2年子どもといた分、払うしかないと。 ―復職は仕事をしたいという思いからだったのですか。 菜野さん:家計のことを考えて、「働かないと」と思ったからです。でも、結局働いているうちにやっぱり子育てしたほうがいいと思いました。仕事はいつでもできる。とりあえず「これだけ減っても大丈夫」と予め見越していた蓄えが尽きるまでは専業主婦をして、後でまた働くなりなんなりそのときに考えればいいと思いました。うちは夫と家計を折半しているので、子育てのためにどちらが退職するか?という話をしたときに、子どもが「ママがいい」と言ったのもあり、私が退職することにしました。退職に伴い、子どもは幼稚園に編入しました。 ―専業主婦になってから起業するまでのことを教えて下さい。 菜野さん:専業主婦をやっていてしばらくすると、シンシアさんに「外資系企業のカントリーマネージャーの仕事があるよ」と教えていただき、その仕事をパートというかたちで始めました。比較的在宅が多めで1日約4時間子どもが幼稚園に入っている間だけ働くという生活を9か月間ほどしました。でも雇われていると自分の時間がコントロールしづらく、労働時間が増えていったのもあり自分で事業をやりたいという気持ちになりました。その心境に至ったのは、既存の枠組みの中で育児と仕事を両立すると私の望む生活にならず、失敗だったと感じたからです。1日は24時間しかないので、その時間で育児と仕事をしようとするとゼロサムゲームにしかならない。 ―私もそうですが、多くの人が「時間がない」と悩んでいると思います。 菜野さん:例えば、会社の枠組みに働き方を合わせなきゃいけないとすると、多くの方はフルタイムがデフォルトになりますよね。「決められた時間の仕事で例えば9時間、朝9時から18時まで使ったら、残りはどう分配するか」それが無意識の人の行動だと思うんです。こちらが既存の枠組みに合わせて働くのは、雇われている以上変えられない。だから、私が望む生活が送れないなら、自分で作るしかないと思ったのです。生活に仕事と育児を「融合」したほうがいいと思いました。そのコントロールをするための起業です。 ―「融合」というのは面白いですね。 菜野さん:自分で会社を始めてからは仕事と育児の関わり方がフレキシブルになりました。例えば、子供の送迎や授業参観の予定に合わせて仕事を組めば良いですし。仕事を作るのは自分なので、子どもが遊んでいる様子を見てビジネスのアイデアが湧いたり、仕事している時間に子どもとの向き合い方に気づきがあったりします。 ―仕事も育児も共存して、お互いに影響を与えるのですね。私も自営業ですから共感できる考え方です。 菜野さん:長い年月のスパンでいつ子育てしていつ働くかという考え方もありますが、私たちの世代はITの後押しもあって融合系を選ぶこともできるようになったと考えます。例えるなら、この働き方はアニメドラえもんのジャイアンの実家「剛田商店方式」みたいな感じ。家業のある家の子は、子供もちょっと仕事を手伝ったりして、お母さんは店番をしながら家事をして子どもの宿題をみてというのができる。新しいというよりは昔の働き方に近いものかもしれません。 ―「剛田商店方式」!私もあえて昔のような働き方がいいと感じています。今の時代インターネットで情報も簡単に取れるし、会社で働くことを前提にしなければ、働く時期を明確に区切る必要はないかもしれませんね。 菜野さん:そうそう。個人の集合体で仕事ができるという時代の強みもあると思います。今はライブでミーティングもできるし、シフトもAIで組める。絶対8時間会社にいてね、決まった時間に必ず働いてね、と言わなくても働ける「剛田商店方式」ができるんじゃないかと思っています。 前編を振り返って 菜野さんが見つけた育児と仕事を「融合」させるという働き方。私自身も0歳の娘を育てながら、日々「子どもと向き合う時間」と「自分の仕事」をどう調和させるか悩むことが多く、菜野さんのお話には強く共感しました。後編では、菜野さんの事業の内容や、子どもと過ごす日々の時間、そしてこれまでの決断を振り返ってどう感じているのかを伺います。

会社員からフリーランスに—0歳児との暮らしと働き方〈Career Break Diary vol.1 末宗由奈〉

東京から九州へ、会社員からフリーランスへ。妊娠・出産を経て始まった0歳児との暮らしは、嬉しさと同時に迷いや葛藤の連続でした。福岡市の制度でベビーシッターを活用し、仕事時間を確保しながらも、娘と過ごす時間を大切にしています。10月からは保育園に通わせる決断もしました。子どもを育てながらどう働くか、今後のビジョンを綴りました。

子どもを持つということ

私は2025年の3月に、第一子を出産しました。子どもが欲しいと願っていた気持ちが、叶ったかたちです。 「子どもがいるとキャリアが止まる」「自由な時間がなくなる」「子どもを持たない人生も、もっと認められるべきだ」「経済的な負担が増える」 そんな言葉を耳にすることが、この数年で一気に増えたように感じます。 子どもを持つかどうかに、正解や優劣はないと思います。人生の優先順位、結婚や仕事のタイミング、パートナーとの関係性、経済的な事情、体調やライフステージなど、背景は人それぞれです。 ただ、子どもを持つことに対するネガティブな声がある中で、自分がなぜ「子どもを持ちたい」と思ったのかを、改めて言葉にしておきたいと思いました。 思い返すと、子どもを持ちたいという気持ちは昔からありました。兄弟が四人いる家庭で育ち、にぎやかに過ごすことの多い環境でした。だから、小学生の頃には母親に自分を重ね、「20代前半のうちには結婚して、子どもを育てるんだろうな」と思っていた記憶があります。 しかし、社会人になると状況も気持ちも、そう単純ではありませんでした。 大学を卒業して大学院に進み、社会に出たのは24歳。そこからは、仕事に打ち込む日々が続き、「家族を持つ」というイメージは少しずつ遠のいていきました。 資格も取りたいし、転職もしたい。 しかも、自分のペースで過ごす生活も心地よくて、子どもがいない人生も自分らしい選択かもしれないと思った時期もありました。 そんな中で、ずっと頭の片隅にあった価値観や声がありました。 「子どもができると、自分が一番じゃなくなるよ」「価値観ががらっと変わるよ」 どちらも、子どもを育てている周囲の人たちから聞いた言葉です。 自分の価値観が揺れたり、思い通りにならない日々が続いたとしても、「それでも子どもは愛おしい」と語る人が多くいます。 私も、そんなふうに感じられる日々を経験してみたいと思ったのです。 今自分のやりたいことを優先して、子どもをもつことを後回しにしてしまうと、後からその選択を後悔するかもしれません。そんな気持ちも、私の背中を押しました。 これからの暮らしは、これまでのように自分の思い通りに、計画通りに、とはいかないかもしれません。実際、働き方の悩みや、経済的な不安もあります。 でも、「自分でこの選択をした」ということが、今後の私を支えてくれると思います。 子どもが生まれてから、数か月しか経っていませんが、その存在が、私にとってかけがえのない力になっています。

会社を辞めて気づいた3つのこと ― 人生の余白/人とのつながり/新しいチャンス―

会社を辞める決断をしたのは、地方移住が決まり、自分らしい働き方を模索したいという思いからでした。 退職後、自由な時間ができたことで、思いがけない出会いやチャンスに恵まれました。 今回は、退職を経て気づいた「人とのつながり」と「チャンス」に関する3つの学びをお伝えします。 ① 時間と余白が生み出す新しいチャンスがある 私は退職後、すぐに再就職する予定がなかったため自分なりの事業の計画を立てていましたが、実際には計画になかった多くのチャンスが訪れました。「会社を辞めました」と周囲に伝えると、「これを手伝ってほしい」と思いがけない方々からと声をかけていただいたのです。 私のように退職して個人になると、副業規定や勤務時間など会社員にある制限がないため、「この人にならちょっとした依頼を気軽に頼めるかな」と思っていただける場面が増えるのかもしれません。 「時間」と「余白」が生まれたことで、新たなチャンスを呼び込むきっかけになることを実感しました。 ②仕事は、人とのつながりの中で生まれる 退職後に私が実際にいただいた仕事や機会のほとんどは、身近な人とのつながりからでした。 最初に仕事を依頼してくれたのは父でした。父は定年後に個人事業主として活動しており、退職を報告したとき、すぐに「手伝ってくれないか」と声をかけてくれました。そして父が取引先に「娘が手伝っている」と話したことで、別の企業からも仕事をいただけることになりました。 会社員時代に取得した資格や経験も役立ちましたが、それ以上に人と人とのつながりが仕事を生み出すということを再認識しました。 ③ 行動パターンが変わると、素敵な出会いにつながる 会社員の頃は、土日にプライベートな予定を詰め込んでいましたが、退職後は混雑を避け平日に外出するようになりました。 薄井シンシアさんと出会ったのも、そんな平日の午後のことでした。 街中で偶然、以前から尊敬していたシンシアさんを見かけ、勇気を出して声をかけました。その際に、「会社を辞めて、今はこんな目標があります」とお話したことで、シンシアさんが私のことを気に留めてくださったのだと思います。 その後、イラスト制作やホームページリニューアルにも関わらせていただくことになり、まさかの出会いが思ってもいなかった形で新たなチャンスにつながっていきました。 あの日あの時間に外に出ていなければ出会わなかったご縁、そして様々な機会をいただいたシンシアさんに心から感謝しています。 まとめ:行動したことでわかった、新しいチャンスの生まれ方 会社を辞めて得られた人とのつながりやチャンスは、事前に想像できるものではありませんでした。会社を辞める前から、このような未来を明確にイメージできれば、迷いなく前に進める人も多いのかもしれませんが、現実はそう簡単ではありません。 それでも私は、行動に移したことで生まれた「余白」が人とのつながりを深め、そこから予想もしなかった新しいチャンスへとつながっていったと感じています。

会社を辞めたら失うものが多すぎる?

多くの人が会社を辞めるとき、「収入がなくなる」「キャリアに空白ができる」といった、“失うもの”に意識が向くのではないでしょうか。 退職には、それなりのリスクや迷いがついてまわるものだと思いますが、私は「今、失うもの」よりも「この先の人生で得られるもの」に目を向けて決断しました。 会社員の安心と見えなくなっていたこと 会社員でいることのメリットは、やはり安定した収入があることだと思います。 毎月決まった日に給料が振り込まれ、社会保険料や税金に関する手続きも会社が行ってくれます。そうした仕組みに守られているからこそ、働くことに集中できます。 一方で、そうした「守られている状態」によって、社会保険や税金の仕組み、自分の労働単価について無頓着になりがちでもあります。 退職すると安定収入はなくなりますが、これを機に確定申告や社会保険の仕組み、ビジネスの基本的な考え方などを調べ、実践する機会を持つことができます。 そう考えると、これからの長い人生を生きていく上で欠かせない力をつけるために、前向きに辞めるという選択肢をとることができました。 キャリアの中断=デメリットではない また、キャリアに空白ができることは、転職活動で不利になるかもしれないと多くの人が不安を感じるポイントだと思います。私も最初はそうでしたが、マイナスに捉えるのではなく、このブランク期間の位置づけを明確にし、人生にとって有意義なものにすれば何も問題はないだろうと考えを改めました。 私が会社を辞めたのは、地方移住を機に働き方を見直したいという思いがあったからですが(この点は前回の記事でも触れました)、それに加えて、東京での残りの時間を「挑戦期間」と位置づけていたことも大きな理由でした。そうすることで、キャリアを中断することにも自然と気持ちが向いたのだと思います。 自己実現の時間を確保したかった この「挑戦期間」は、人生においてとても貴重なものになるだろうと思いました。会社などの組織に縛られず、自分の責任で意思決定できるチャンスは実はあまりないのではないかと思います。 もともと私には、「自分のビジネスで人を喜ばせる仕事がしたい」という夢がありました。具体的には、将来旅館やホテル業を立ち上げたいという思いがあり、「退職したらホテルでアルバイトをしたり、SNSで情報発信をしたりして夢に近づこう」と計画を立てていました。 残念ながら、実際には妊娠がわかり、つわりも重かったため、計画の多くは断念することになりましたが、それでも会社を辞めてから自分の想像を超える素敵な出会いやチャンスが多くありました。 退職は、得るための決断 退職によって失うものがゼロだったとは言いませんが、それよりも大きかったのは、「理想の人生に必要なルートを、自分の手で切り開いていく時間」が持てたことです。 退職は、私にとって“終わり”ではなく、新しい選択肢に出会うための始まりだったと考えます。