
キャリアブレイクダイアリーでは、キャリアの途中で立ち止まり、新しい人生を歩み出した人たちの声をお届けします。
今回お話を伺ったのは、大島加奈さんです。
加奈さんは岩手県出身、東京都在住。大学卒業後、信販会社に新卒入社し、営業として約6年勤務。全国転勤のある夫との結婚を機に退職し、夫の勤務地である静岡へ。2013年に男の子を出産、夫の転勤に伴い再び東京へ戻ります。以降、約12年間のキャリアブレイク。息子さんの幼稚園受験・小学校受験に伴走し、2024年、新卒入社した企業へパートタイマーとして復職。現在は、次のキャリアを描き直している最中です。
約12年お仕事から離れられたのは、ご自身で選んだ選択だったのでしょうか。
実は少し特殊で、「キャリアブレイクをしよう」と最初から決めていたわけではありません。その時々で、自分にとってベストだと思える選択を積み重ねていった結果、気づけば仕事から離れる期間が長くなっていました。どちらかというと、状況に合わせて自然と流れに乗っていった、という表現が近いかもしれません。
約6年勤めた会社を辞めた理由を教えていただけますか。
私も夫も全国転勤のある仕事をしていました。夫が静岡に赴任していた時期に結婚が決まったのですが、私自身もいつどこへ転勤になるかわからない状況でした。このまま働き続ければ、結婚しても別々に暮らすことになる——当時の私にはその選択肢は考えられませんでした。「それなら辞めよう」とすぱっと決めたのを覚えています。迷いはほとんどありませんでした。
出産後、働くという選択肢は考えられましたか。
結婚して静岡に移り住み、ほどなくして息子を授かりました。生後半年の頃に夫の辞令で東京へ戻ることになり、私も仕事復帰を考えて保育園を調べました。しかし、当時は専業主婦で、さらに夫の実家の近くに住んでいたこともあり、保育園の入園基準を満たせず、預けることができませんでした。預け先が見つからなかったため、そのタイミングでの仕事復帰は選びませんでした。
仕事復帰をしないと選択したとき、どのようなお気持ちでしたか。
シンシアさんのように「この子と一緒にいる」と前向きに決めたというより、「預けられないし、一緒にいなきゃ」という気持ちでした。ただ、生まれてみたら想像より「かわいいな」と思い、一緒にいたいと思うようになりました。
それに、東京に戻ったとはいえ、次にどこへ転勤になるかわからない状況でした。もし住む場所が変わらないとわかっていたら、働くという選択をしていたかもしれません。
ご自身の中に「母親のモデル」はありましたか。
私の母はずっと働いている人でした。当時は産休や育休の制度が今ほど整っていなかったので、ぎりぎりまで働き、産んだらすぐに預けて復職していました。保育園の先生のほうが私のことをよく知っている——そんな環境で育ちました。一方で、夫の母は専業主婦でした。
その二つのモデルが自分の中にある状態でした。私はきっと実の母のように働くのだろうと思っていましたが、心境が変化し、義母のような生き方もいいなと思うようになっていきました。ただ、自分自身は「母と密に過ごす」という経験をしてこなかったので、親子の距離感やあり方がよくわからず、常に迷いがありました。これでいいのかな、と。
お子さんは幼稚園から受験されていますが、どのような思いがあったのですか。
順番としては、小学校受験を決めたのが先でした。理由はシンプルで、息子には夫のような人に育ってほしいと思い、夫の母校を目指すことにしました。
その小学校に進むために親和性のあるところを、と選んだのが家の近くの幼稚園でした。そこがたまたま、いわゆる「お受験幼稚園」でした。
正直に言うと、ずっと息子と二人でいるのは疲れるだろうな、と想像していました。受験という通過点ができたことで、習い事などで外出する機会が増え、社会とのつながりを持ち続けることができました。また、息子もいろいろな人と関わることで成長につながったと思います。受験に向けて家族で協力し合えたことも、絆を深めるきっかけになりました。結果として、受験して良かったと感じています。
当時を振り返って、いま思うことはありますか。
1歳前くらいから、いろいろな教室に通わせ始めました。当時の東京はそうした空気に満ちていて、何かさせなければいけないのではないかという焦りに流されてしまったところがあります。受験について私自身が十分に理解していなかったこともあり、教室で言われたことをそのまま実践していました。今振り返ると、あんなにしなくてもよかったのだろうなと思うことを、たくさんしてしまいました。後悔もあります。
ただ、その時代の、そのタイミングで、私たちなりのベストを選んでいたとも感じています。幼稚園の頃には、親子で2年続けてハワイに短期留学もしました。
受験に向かう日々の中で、悩みを相談できる相手はいましたか。
子どもの受験について相談できる友人はいませんでした。とにかく一人でがんばっていた記憶があります。
その一方で、産んだ病院の集まりが月に一度あり、参加できる人が集まって話をする場がありました。また、習い事で知り合った方々とも交流が生まれ、そうした場が自然と情報交換の場になっていましたね。
お子さんが小学校に上がってからは、働くことを考えられましたか。
考えていました。1年生のゴールデンウィークまでは付き添うと決めていて、慣れてきたら仕事を探し始め、働こうかな、と。
ただ、1年生の5月に登下校中のトラブルがあり、「お母様、しばらく付き添いをお願いします」と学校から言われてしまいました。それがとてもショックで、一人で学校に行ってくれれば私は仕事を始められたかもしれないのに、と感じ、息子を責めてしまったこともあります。
それでも、来年になれば少しは動けるかもしれない——そう思っていた1年生の2月に、学校が休校になりました。コロナが始まったのです。
前編を振り返って
「働こう」「仕事を始められたかも」。加奈さんはそう振り返ります。働く道が見えかけるたび、家族の事情が重なっていきました。
それでも、ご主人の住む先へ移り、息子さんの未来のために受験に伴走する。二人の母のモデルの間で、家族の状況に合わせてご自身の立場を選ばれてきました。その柔軟さは、これから私が家族と向き合う場面でもきっと必要になるものだと思いました。
後編では、先の見えない休校が始まってから、12年ぶりの復職、そして今に至るまでを伺います。
